「パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ」の版間の差分
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[[1882年]]、李鴻章はメレンドルフを朝鮮政府の顧問に推薦し、同年12月に彼は高宗との初の謁見のために[[ソウル特別市|ソウル]]へ着いた。メレンドルフは速やかに高宗と意を通ずるに十分な朝鮮語を身につけ、まもなく高宗<!-- 原文ではemperorだが、king(高宗)でないと状況的に意味が通らない。高宗は後に皇帝に即位しているから単なる間違いと推定。-->の信頼をかち得た。高宗はメレンドルフを外務協弁(外務次官)に任じ、朝鮮海関の設立を委ねた。メレンドルフは中国・朝鮮風の「穆麟徳」を名乗り、すぐに朝鮮政府で大いに影響力のある人物となった。
メレンドルフは李鴻章や[[ロバート・ハート]]([[:en:Sir Robert Hart, 1st Baronet|Robert Hart]], 中国海関の総税務司)の希望に反して朝鮮の独立を主張することを望んだ。彼は中国海関から朝鮮海関を可能な限り独立させたかった。メレンドルフは朝鮮半島に対する中国と日本の影響を平衡させるために、朝鮮が[[ロシア帝国]]と同盟を組むことを唱えた。結果として、清政府はメレンドルフが独走していると感じ、[[1885年]]に[[李鴻章]]は朝鮮政府にメレンドルフの罷免を強要した。1888年、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]はメレンドルフの復職を試みたが、不成功に終わった。
== 学問的著作と後半生 ==
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