亀岡盆地
地形
編集断層角盆地で、中央を桂川(大堰川)が横断する。盆地からの流出口は京都市方面への保津峡のみである。そのため、保津峡の排水能力が限界に達すると保津峡口にある地域、特に地盤の低い南側の亀岡市街地は冠水(湛水洪水)しやすくなっており、近年まで度重なる洪水に見舞われている。現在は上流に日吉ダムができたため、大きな洪水は起こっていない。
また、亀岡盆地の北東部から北部にかけ愛宕山山系が聳え立つため、冬になると霧が頻繁に発生する。このように亀岡盆地は水・霧が溜まりやすい地形となっており、古くは湖であったという伝承(後述)も残っている。
特産
編集産業は農業が中心であり、豊富な地下水で丹波米や丹波産黒豆(紫ずきん)、丹波大納言小豆を産する。近年は、男前豆腐店・湖池屋・虎屋・日清医療食品・雪印メグミルク・理研ビタミン等の食品工業を中心とする企業立地も盛んになっている。
湖伝承
編集亀岡盆地は太古は湖であったと言われ、それに基づく伝承が各地に残っている。
地質学的見地
編集地質学的には、鮮新世・更新世頃まで標高280mほどの湖であったことが確認されており[1]、周辺の山体には一部平らになっている段丘地形も見られる[1]。また、地形と地質から、その後も何度か湖や沼地であった時代が繰り返されたものと考えられている[1]。現在においても、盆地は保津峡がひと度塞がれば湖に戻る地形をなしている。ただし、当地にいつまで湖が残っていたかは定かではない。
考古学的見地
編集考古学的には、口丹波最大の千歳車塚古墳(亀岡市千歳町千歳)を始めとして大小多くの古墳や遺跡が盆地内に残っており、周辺の山に沿った高所に分布している。また、それらは概ね標高100-200mの高台に位置しており、標高100mの水面を持つ湖が示唆される[2](現在の亀岡市街地で標高は約100m)。
蹴裂伝説
編集盆地内に残る伝承によると、当地には赤土の泥湖であったという「丹の湖・丹の海(にのうみ)」があったという。また、これに基づき国名の「丹波」も、「風が吹くと湖に丹色(朱色)の波が立った様子」を表したとする説もある[3]。ただしこの国名の由来は一般にはあまり認められず、別説が有力視される[4]。
この湖に関して、出雲神話で有名な大国主命が保津峡(古くは浮田峡)を開削、湖の水を抜き盆地を開拓したという伝承(蹴裂伝説)が、盆地周辺の神社数社で伝わっている。しかしながら有力な文献はほとんど残っておらず、各社の社伝や口伝に拠る所が大きい。そのため、地元の郷土史でもほとんど取り上げておらず[5]、伝承自体も各社で異なっているために統一的な解釈は出ていない。
関係する伝承を有する神社は以下の通り。
- 出雲大神宮(亀岡市千歳町千歳)
- 徳神社(亀岡市東別院町神原)
- 樫船神社(大阪府高槻市田能)
- 当地で開削を行う際に湖に浮かべる樫の舟が作られたとされる[9]。
- 桑田神社 (亀岡市篠町山本)
- 請田神社(亀岡市保津町立岩)
- 餅籠神社(持籠神社/篭持神社)(所在不明)
- 当地から籠で土砂を運んだとされる[13]。伝承上の神社で、所在は明らかでない。
- 鍬山神社(亀岡市上矢田町)
- 大井神社(亀岡市大井町並河)
- 式内社。想定湖範囲の中心部に鎮座。湖の水が乾き残り「大いなる井戸(大井)」となったとされる[14]。現在、境内に「丹の池」として残る。
以上の説話は全国に残る大国主の国づくりの1つである。同様に太古に湖があったという伝承は、甲府盆地等の日本各地の盆地にも見られる。
脚注
編集- ^ a b c 『新修 亀岡市史』(亀岡市)第1巻 第1章 第3節「亀岡市およびその周辺の地形概観」。
- ^ 『蹴裂伝説と国づくり』。
- ^ 「丹波」の語源、地名の由来、大井神社社伝等。
- ^ 一般には「丹波」は「田庭」、すなわち「平らかで広い場所」が由来とされている(『京都府の地名』丹波国節等。詳しくは「丹波国#「丹波」の名称と由来」を参照)。
- ^ 『篠村史』・『新修 亀岡市史』には伝承に関する記載はほとんどない。
- ^ 出雲大神宮(口丹波の社[個人サイト])。
- ^ 徳神社(丹波の神社[個人サイト])。
- ^ a b c 鍬山神社社伝。
- ^ a b 樫船神社(丹波の神社[個人サイト])。
- ^ 桑田神社(丹波の神社[個人サイト])。
- ^ a b 『亀岡神社誌』桑田神社項。
- ^ 請田神社社伝。
- ^ a b 保津川 丹の湖(うみ)(琵琶湖・淀川流域連携交流会)。
- ^ 大井神社社伝。
参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 上田篤・田中充子『蹴裂伝説と国づくり』(鹿島出版会、2011年)ISBN 978-4-306-09410-9 「7 オオクニヌシが亀岡の山を裂いた」節
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)