大中臣諸魚
大中臣 諸魚(おおなかとみ の もろな/もろうお)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。右大臣・大中臣清麻呂の四男。官位は正四位上・参議。
時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平15年(743年) |
死没 | 延暦16年2月21日(797年3月23日) |
官位 | 正四位上参議 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 大中臣氏 |
父母 | 父:大中臣清麻呂、母:多治比子姉 |
兄弟 | 宿奈麻呂、子老、継麻呂、諸魚、老人、今麻呂、藤原瀧麻呂室 |
妻 | 大和姫子、大和小常子 |
子 | 智治麻呂、伯麻呂、百子 |
経歴
編集光仁朝初頭の宝亀2年(771年)皇后宮少進に任ぜられたのち、同年7月に右衛士大尉に転じ、宝亀6年(775年)中衛将監を経て、宝亀7年(776年)従五位下・衛門員外佐に叙任される。その後も、宝亀8年(777年)衛門佐、宝亀10年(779年)中衛少将、宝亀11年(780年)右衛士佐と武官を務める一方、備前介・下野守と地方官を兼ねている。
桓武朝に入ると、天応2年(782年)少納言と文官に転じる。桓武朝では長岡京遷都を担当し、延暦3年(784年)6月に中納言・藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、同年11月には遷都に関連して松尾神社・乙訓神社に派遣されている[1]。
のち、延暦4年(785年)右中弁兼左兵衛督と文武の要職を兼ねる一方で、延暦2年(783年)従五位上次いで正五位下、延暦4年(785年)正五位上、延暦6年(787年)従四位下と急速に昇進し、延暦9年(790年)参議に任ぜられ公卿に列した。その後も延暦13年(794年)従四位上次いで正四位下と累進して、延暦15年(796年)正四位上に至り、議政官として左大弁・近衛大将を兼ねた。
なお、延暦8年(789年)以降神祇伯も兼任し、延暦10年(791年)神宮が放火されたことの謝罪[2]、延暦13年(794年)蝦夷征討祈願を目的に[3]、いずれも伊勢大神宮に派遣されて幣帛を奉納している。また、延暦11年(792年)母・多治比子姉が卒したが、これに先だって、中臣氏で神祇伯を務める者は、天照大神に仕える神主であることから、代々近親者の服喪のために解官されることがない旨、諸魚は朝廷に申請していた。しかし、諸魚が葬儀に携わらないといっても、そのまま神事に供奉してはならないとして、法令通り官を辞して喪に服すよう勅令が出されている[4]。
人物
編集琴歌を好んだが、他には才能は無かった。服喪中であっても、興が乗ると慎むことを忘れるような所があった。財貨に貪欲で金儲けに勤しんだために、時の人々に蔑まれたという[5]。
官歴
編集注釈がないものは六国史に基づく。
- 宝亀2年(771年) 正月:皇后宮少進[6]。7月:右衛士大尉[6]
- 宝亀6年(775年) 3月:中衛将監[6]
- 宝亀7年(776年) 正月7日:従五位下。3月6日:衛門員外佐
- 宝亀8年(777年) 10月13日:衛門佐
- 宝亀9年(778年) 2月4日:兼備前介
- 宝亀10年(779年) 2月23日:兼下野守。9月7日:中衛少将
- 宝亀11年(780年) 9月1日:右衛士佐
- 天応2年(782年) 閏正月17日:少納言
- 延暦3年(783年) 正月7日:従五位上。4月2日:兼兵部大輔。6月10日:造長岡宮使。12月2日:正五位下
- 延暦4年(785年) 正月15日:兼山背守。正月27日:左中弁。7月6日:兼左兵衛督。11月25日:正五位上
- 延暦5年(786年) 2月17日:式部大輔。4月19日:右京大夫
- 延暦6年(787年) 5月19日:従四位下
- 延暦7年(788年) 2月6日:兼播磨守
- 延暦8年(789年) 2月4日:兼近江守。3月16日:神祇伯
- 延暦9年(790年) 2月27日:参議
- 延暦11年(792年) 4月21日:兼近衛大将。閏11月4日:辞官(母服喪)
- 延暦13年(794年) 正月:従四位上[6]。2月:兵部卿。10月27日:正四位下
- 延暦14年(795年) 2月19日:左大弁
- 延暦15年(796年) 7月28日:正四位上
- 延暦16年(797年) 2月21日:卒去(参議左大弁近衛大将兼神祇伯正四位上)
系譜
編集「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。
- 父:大中臣清麻呂
- 母:多治比子姉(古奈禰)
- 妻:大和姫子 - 典侍
- 男子:大中臣智治麻呂
- 男子:大中臣伯麻呂
- 妻:大和小常子
- 女子:大中臣百子 - 平城天皇御息所