太田栄次郎
明治期の陸軍軍人
太田 栄次郎(榮次郎、おおた えいじろう、1857年11月12日(安政4年9月26日[1][2][注釈 1])- 1927年(昭和2年)7月17日[1][3])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲三等・功三級。
太田 栄次郎 | |
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『歩兵第三十七聯隊史 : 附・下士優遇及志願心得』より | |
生誕 |
1857年11月12日 静岡県 |
死没 | 1927年7月17日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1877年 - 1912 |
最終階級 | 陸軍少将 |
指揮 |
歩兵第10旅団長 歩兵第37連隊長 歩兵第45連隊長 歩兵第64連隊長 |
戦闘 |
日清戦争 日露戦争 |
勲章 |
従四位 二等第一雙龍寶星 |
出身校 | 陸軍士官学校 |
経歴
編集本籍静岡県。士族小森龍治の二男に生まれ、1971年(明治4年)東京府士族の太田なつの養子となる[1][2]。沼津兵学校附属小学校(現沼津市立第一小学校)で学んだ[1]。1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校(旧1期)に入学[1][2][4]。1877年(明治10年)2月、西南戦争に従軍[4]。同年12月、士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉に任官した[1][2][4][5]。日清戦争に従軍[2]。
1903年(明治36年)3月、歩兵第45連隊長に発令され日露戦争に出征し、同年12月、歩兵大佐に昇進[1][2][3][6]。大石橋の戦い、遼陽会戦に参戦し、沙河会戦直前に戦傷を受けた[1][3][6]。1905年(明治38年)7月、歩兵第64連隊長に転じ、歩兵第37連隊長を経て、1907年(明治40年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第10旅団長に就任した[1][2][3][6]。1912年(明治45年)4月、予備役に編入された[1][3][6]。
墓所は新宿区の常圓寺。戒名は荘厳院殿玄龍日輝居士。妻は外交官の稲垣満次郎の養妹の道子。次男の久元は東海銀行の銀行員。長女・栄子は楠本正継に嫁いだ[7]。
栄典
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本陸軍将官辞典』150頁では安政3年9月。
出典
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録』第4版、1915年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
- 樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-03780-8