旅順口攻撃
旅順口攻撃(りょじゅんこうこうげき、リューシュンコウこうげき)は、日露戦争の開戦した1904年(明治37年)2月から5月にかけて行われた大日本帝国海軍連合艦隊によるロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃である。
旅順口攻撃 | |
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「旅順港外大海戦真図其弐 露国艦隊の敗戦」 | |
戦争:日露戦争 | |
年月日:1904年2月8日 - 4月15日 | |
場所:旅順沖 | |
結果:決定打なく膠着 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | ロシア帝国 |
指導者・指揮官 | |
連合艦隊・ 東郷平八郎中将 |
太平洋艦隊・ スタルク中将→ マカロフ中将→ アレクセーエフ大将→ ヴィトゲフト少将 |
戦力 | |
戦艦6 装甲巡洋艦6 防護巡洋艦12 駆逐艦19 |
戦艦7 装甲巡洋艦1 防護巡洋艦8 駆逐艦18 |
損害 | |
沈没艦なし | 損傷艦多数、小型艦艇4隻 |
日本海軍は、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、旅順口攻撃を計画した。日本海軍は水雷夜襲等による八次にわたる攻撃と三回の閉塞作戦を実施した。 この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が容易になった他、第一次日韓協約が締結されるなど戦地に連なる韓国との外交関係を有利なものとした。しかし、旅順港に籠るロシア艦隊に決定的な打撃を与えることには成功せず、艦隊が温存されたことにより日本から満州に到る制海権が脅かされたため、陸上側からの旅順要塞の攻略が必要となった。
背景
編集日本軍の先制行動
編集1904年(明治37年)2月4日、御前会議で開戦が決定されて陸海軍に対して大命が下り、6日からの作戦発動が命じられた。5日17時に連合艦隊司令長官東郷平八郎は出動命令を受け、6日1時に佐世保に集結していた艦隊の幹部を三笠に集めて打ち合わせを行った。9時に出撃、7日には朝鮮半島北西岸の小青島付近に進出、また陸軍第2師団の第一陣2200人の一部を乗せた運送船3隻の護衛と陸軍の上陸予定地の仁川を抑えるため、第二艦隊第四戦隊(浪速、高千穂、新高、明石)を分派した。
1904年(明治37年)2月6日の朝、連合艦隊は佐世保軍港より出撃、第一戦隊(三笠、朝日、八島、敷島、初瀬、通報艦龍田)は7日に朝鮮半島南岸の九針岩付近でロシア貨物船「ロシア号」を拿捕した。先行してロシア商船「アルグン号」を拿捕した第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常磐、磐手、通報艦千早)と合流し、遅れて第三、第四戦隊、第一・二・四・五駆逐隊も旅順沖へ集合した。
ロシア側の態勢
編集ロシア海軍は、旅順に太平洋艦隊の主力を配置していた。
- 開戦時のロシア旅順艦隊(主な戦闘艦艇)[1]
- 戦艦7隻:ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポルターヴァ、ペトロパヴロフスク、セヴァストーポリ、ポベーダ
- 装甲巡洋艦1隻:バヤーン
- 防護巡洋艦8隻:パラーダ、ジアーナ(Диана)、アスコリド(Аскольд)、ボヤーリン(Боярин)、ノヴィーク、ザビヤーカ(Забияка)、ラズボイニク(Разбойник)、ジギート(Джигит)
- 砲艦・水雷砲艦6隻:グレミャーシチイ(Гремящий)、オトヴァージヌイ(Отважный)、ギリャーク(Гиляк)、ボーブル(Бобр)、フサードニク(Всадник)、ガイダマーク(Гайдамак)
- 駆逐艦18隻(詳細略。他に開戦後の竣工艦が数隻)
旅順港の特色
編集旅順港は細い水路で結ばれた内港と外港から成る地形だった。旅順港はかねてよりロシアが待望した極東の不凍港であった。ただし、浅水港であり浚渫が不足していたため、喫水の深い戦艦などを内港に停泊させた場合に干潮による着底で艦底を傷めるおそれがあるほか、潮位によって出港不能となった。逆に、浅水であることを利用して、水線下の水雷被害を干潮時に修理することができた。そのため、大型艦船は当初は水深の深い外港に停泊していたが、攻撃が始まると旅順艦隊の主力は内港へ引きこもることが多くなった。また、外港と内港を繋ぐ湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させる閉塞作戦が実施されることとなった。
戦闘経過
編集第一次攻撃
編集1904年(明治37年)2月8日18時、日本の連合艦隊は旅順東方44海里の円島付近に進出、第一・二・三駆逐隊を旅順港、第四・五駆逐隊を大連湾へ進撃させた。20時50分、旅順港外にロシア駆逐艦を発見したので灯火を消したために衝突事故を起こした。日本の駆逐隊は隊列を乱しながらも更に進み、9日0時20分より港外停泊中のロシア艦隊を発見、約10000mから魚雷攻撃した。脱出後は仁川へ10日に集合した。この夜襲で戦艦ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、防護巡洋艦パラーダに魚雷が命中した。ツェサレーヴィチは水線下の舵機室を破壊されて浸水、右舷に傾いた後、左舷に18度まで傾いた。レトヴィザンとパラーダも水線下に大破口を生じて浸水した。3艦は徹夜で防水に努めて、他艦の助けにより曳航されて湾内に入るも座礁擱座した。同時に第四・五駆逐隊が大連湾を襲撃したが敵艦に遭遇しなかった。
続けて翌9日朝より第三戦隊が旅順口の偵察と誘出のためにロシア艦隊に7000mまで接近したが前夜の混乱により戦意がなく、反撃されなかった。続いて第一・二戦隊が11時55分より距離8500mから約一時間にわたって昼間砲撃を行ったが、ロシア艦隊は誘いに乗らず、日本側も陸上砲台の射程に入らなかったため、互いにわずかな損害を出すにとどまった。日本の夜襲を許したスタルク中将は罷免され、代わってマカロフ中将が着任することとなった。
- 開戦劈頭に旅順口を襲撃した駆逐隊
- 第一駆逐隊(司令:浅井正次郎大佐)
- 第二駆逐隊(司令:石田一郎中佐)
- 第三駆逐隊(司令:土屋光金中佐)
第二次攻撃
編集日本海軍は第二次攻撃として再度の水雷夜襲を計画した。2月11日17時に第四・五駆逐隊が牙山湾を出港し、第三戦隊も続行したが、12日の明け方から雪を伴った強風が吹き荒れて、進撃する艦、避難する艦、引き返す艦など艦隊は分散してしまった。2月14日の未明に旅順口へ到達した第四駆逐隊(司令:長井群吉。速鳥、朝霧、春雨、なお村雨は分離して不在)は港外を警戒するロシア駆逐艦3隻と北方に停泊する1艦を発見し、停止艦に対して魚雷攻撃を加えた。攻撃に気付いた陸上砲台からの攻撃を受けたが命中はなかった。荒天により艦隊行動が乱れたこともあり、予定していた港内を狙った間接射撃は実施せず、第二次攻撃は僅か駆逐艦3隻による襲撃になり、戦果も不明であった。
この間に2月16日から27日まで行われた第12師団の仁川上陸が成功し、以後漢城は日本側が確保した。また、前年の交渉では頓挫した日韓議定書が13日からの交渉で23日に締結されるなど韓国の政治情勢は日本有利に導かれた。
第三次攻撃(第一回旅順口閉塞作戦)
編集2月18日、東郷は第三次行動となる旅順口閉塞と港内間接射撃の作戦発動を命令した。23日23時50分、警戒および襲撃を任務とする第五駆逐隊(司令:真野巌太郎中佐。陽炎、不知火、叢雲、夕霧)と閉塞船団は旅順港近くの老鉄山下に進出した。24日0時30分より月が没すると黄金山・城頭山・白銀山のロシア砲台から探照灯による照射が始まった。第五駆逐隊は探照灯を避けながら老鉄山東岸に沿って徐々に進んだがついに発見された。1時30分に探照灯の消灯に乗じて偵察を行ったところ、駆逐艦2隻と艦種不明の1隻を発見し、これに魚雷攻撃を行った。
襲撃の後、水雷艇を用いた航路偵察が行われたが、探照灯により発見され砲撃を受けた。陸上砲台の砲撃停止と航路が確認されたため、老鉄山沖に待機していた5隻の閉塞船団は4時15分より天津丸、報国丸、仁川丸、武揚丸、武州丸の順で突入を開始した。旅順口を目指す閉塞船団は探照灯に捉えられ猛烈な砲撃を受け、閉塞は不十分なものとなった。
水雷艇隊は危険を冒して突入隊の収容を行った。天津丸・報国丸・武揚丸の乗員は第十四艇隊により収容されたが、第九艇隊(燕欠)は攻撃を行ったため仁川丸・武州丸の乗員収容が行えなかった。24日中に仁川丸・武州丸の乗員が収容できなかったため、更に東郷長官は25日に千早・龍田を旅順口へ派遣して捜索を続けたが発見できなかった。乗員達は砲火を避け隠れながら退避を行い、両船の乗員は偶然遭遇して合流した後、ジャンク船等を使って清国の登州を経由して帰還を果たした。
また、閉塞に先立って攻撃を行った第五駆逐隊は一度退避していたが、砲声を聞いたため閉塞作戦を援護するために引き返し、あえて砲台に接近して探照灯を灯して牽制したが攻撃を吸収することができず、6時30分に砲撃が途絶えたため湾外へ脱出した。
第四駆逐隊は第二戦隊の前衛として7時過ぎに老鉄山沖に到達し、旅順口に接近すると港内にロシア駆逐艦3隻を発見したため砲撃を加えた。ロシア駆逐艦および陸上砲台も応射したが港外への出撃がないため7時20分に離脱した。
閉塞作戦後も旅順港外をロシア巡洋艦バヤーン、ノヴィークのほか駆逐艦5隻が徘徊しており、日本艦隊を攻撃したり、閉塞船に砲撃を加えるなどした。24日12時に東郷長官はロシア巡洋艦が入港困難である可能性があることから、夜半より第四駆逐隊による魚雷攻撃を命令した。25日0時に第四駆逐隊は老鉄山沖に進出、1時30分より第二小隊の村雨・春雨が旅順口に進むと、2時ごろロシア陸上砲台や哨戒艦は探照灯で照らされた沈没閉塞船を誤射していた。村雨は目標を認めて3時3分に魚雷を発射した。春雨も同じく3時8分に魚雷を発射したが退避中に砲撃を受けた。村雨は第二次攻撃のために引き返し、3時10分に座礁しているとみられるレトヴィザンに向けて魚雷を発射した。第一小隊の速鳥と朝霧は25日2時30分に襲撃に入り、50分よりロシア駆逐艦数隻に向けて魚雷攻撃を行い、反転後にロシア艦と砲撃を交えた。さらに両艦は回頭して第二次魚雷攻撃を行った。第五駆逐隊は大連湾にて目標を探したが発見できなかった。
続いて25日の朝より港内間接射撃のため第一・二戦隊が旅順口に進出すると、饅頭山沖に航行するロシア巡洋艦バヤーン、アスコリド、ノヴィークの3隻と遭遇したため、11時31分にこれに砲撃を加えつつ陸上砲台も目標として射撃した。ロシア艦は命中弾を受けて港内へ退避したため港外から間接射撃を行った。第一・二戦隊の攻撃中に老鉄山沖を警戒していた第三戦隊も10時40分頃にロシア駆逐艦を発見して砲撃し、座礁したヴヌシーテリヌイ(Внушительный)を翌日自沈に追い込んだ。陸上砲台の射程も考慮してこれらの攻撃は遠距離で行われた。
3月6日、旅順のロシア艦隊司令官にマカロフ中将が着任した。
第四次攻撃
編集第一軍の上陸を援護するため旅順港の第四次攻撃が企画された。3月10日の未明、第一駆逐隊が旅順口に進出するとマカロフ中将も駆逐艦6隻を繰り出して海戦となり、沈没艦はなかったが双方に被害が出ていた。続いて旅順口に達した第三駆逐隊もロシアの駆逐艦レシーテリヌイ、水雷艇ステレグーシチイと戦闘となりステレグーシチイを無力化した後に捕獲を試みたがロシア巡洋艦のノヴィークとバヤーンが港外に出動してきたため曳航を諦めて撃沈した。
10時頃より第一戦隊が3隻ずつに分かれて10時8分から12時30分までおよび12時50分から13時46分まで間接射撃を行った。ロシア側は、干潮のため港口を通過できず出撃できなかった。この間接射撃により戦艦レトヴィザンに一発の砲弾が命中しその他の艦船や砲台にも被害が出た。
日本陸軍は予定通り、10日に第1軍主力(近衛師団、第2師団)を平壌近くの鎮南浦へ上陸させ、29日までに完了した。以後、平壌で第12師団と合流して北上を開始したが前進速度と悪路のために補給が困難となり、制海権も確保されていることから3月末には補給ポイントを義州南方・鉄山半島の望東浦および梨花浦に前進させた。
第五次攻撃
編集3月22日の未明から朝にかけてに第四駆逐隊と第五駆逐隊が旅順口に進出しロシアの哨戒艦艇と交戦した。
続いて第一戦隊の富士、八島が位置につき、9時56分より間接射撃を行った。ロシア側も対抗して陸上に砲撃用の観測所を新設しており、港内の軍艦が港外の日本艦隊へ間接射撃で応射した。また、ロシア艦隊は艦艇修理と整備を進めたうえマカロフの着任により迎撃を活性化させていた。富士と八島の攻撃に対して、巡洋艦バヤーン、アスコリド、ノヴィークを出撃させ、続いて戦艦ペトロパヴロフスク、ポルターヴァ、セヴァストーポリ、ペレスヴェート他の優勢な艦艇を出撃させたため、日本側は艦隊を退却させた。
第六次攻撃(第二回旅順口閉塞作戦)
編集3月27日の未明、閉塞船4隻による第二回旅順口閉塞作戦が実施された。
閉塞隊を援護するため、同時に第一・二・三駆逐隊および第九艇隊が出動した。この間、ロシア駆逐艦シーリヌイ(Сильный)が陸上砲台の誤射により大破擱座した。
夜が明けてもロシア艦隊は活動を続け、バヤーン、ノヴィークなどの巡洋艦の他、戦艦ポベーダ、ポルターヴァ、ペトロパヴロフスクなどが出航したため、閉塞作戦が失敗した。
第七次攻撃
編集4月7日に日本の連合艦隊司令部は第七次攻撃を発令した。その作戦案は、第四・五駆逐隊と第十四艇隊および蛟龍丸から成る部隊が第二駆逐隊の護衛の下で旅順港口付近へ機雷を隠密敷設するとともに、第三戦隊(装甲巡洋艦2隻で増強)がロシア艦隊主力の誘致を図り、第一戦隊が誘い出されたロシア艦隊を攻撃するという内容であった。悪天候のため作戦は順延され、4月12日午後5時40分に機雷敷設部隊は旅順港口へ向けて出撃した。同日午後11時から13日0時30分まで、敷設部隊は各艦船や駆逐艦村雨に曳航された団平船に積まれた機雷計44個を港口外へ敷設した。この間、雨による視界不良によりロシア側から発見されることはなかった。13日の早朝、敷設援護任務の第二駆逐隊と哨戒中のロシア駆逐艦ストラーシヌイ(Страшный)が交戦したのをきっかけに、ロシア巡洋艦バヤーンが救援のため湾外へ出撃し、日本の第三戦隊と旅順の湾口で砲戦となった。日本艦隊を追撃すべくロシア側はマカロフ中将指揮のもとに戦艦ペトロパヴロフスク他、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻の艦隊主力が出撃した。退避する第三戦隊よりの電報を受けて日本の第一戦隊が救援に駆けつけたが、ロシア艦隊はこれを見て反転し、陸上砲台の射程内に日本艦隊を誘う動きを見せた。この時、10時32分ペトロパヴロフスクおよび続航する戦艦ポベーダが共に触雷した。ロシア側はこれを潜水艇の攻撃と誤認して海面を乱射した。被害を受けたペトロパヴロフスクは砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発したことにより沈没し、座乗のマカロフ中将も戦死した。
4月14日、マカロフの後任指揮官として極東総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフ大将が戦艦セヴァストーポリに着任して直接指揮を執ったが、以後日本艦隊の攻撃があっても積極的な反撃を行わなくなった。更に日本陸軍が塩奥襟襖付近に上陸したことを5月4日に知ったアレクセーエフは連絡を絶たれることを恐れて奉天へ脱出し、艦隊の指揮をウィットゲフト少将に任せた。
第八次攻撃
編集4月14日夜より15日未明に第二・四・五駆逐隊および第九艇隊は旅順口へ進出したが目標を発見できなかった。同じく15日朝に駆逐隊の収容およびロシア艦隊誘引の任務に出撃した第三戦隊も目的を達することが出来なかった。第一戦隊と共に旅順口に進出した新戦力の春日、日進は間接射撃を行ったがロシア艦の出撃はなかった。
第八次攻撃以後の海上戦闘
編集5月2日の夜には閉塞船12隻を投入した第三回旅順口閉塞作戦が実施されたが、閉塞には成功しなかった。
日本海軍は、第七次攻撃で機雷が効果を発揮したことから、機雷作戦の拡大を決めた。同年8月にかけて19回にわたり仮装砲艦による機雷敷設を行ったほか、同年6月から12月までは艦載水雷艇も投入し、ダミーを含め計1703個の機雷を旅順港口から約9キロメートルまでの一帯へ敷設した。
ロシア側も機雷による作戦を展開した。5月5日、旅順口の監視を続ける日本艦隊の航路に対し、ウィットゲフト少将は敷設艦アムールによる機雷敷設を実施した。これにより15日の午前11時10分に老鉄山沖で八島と初瀬が触雷沈没した。日本側は八島の沈没のみ発表し、初瀬の沈没は翌1905年5月末まで伏せられた。この前後には日本側の被害が続出していた。14日には水雷艇四十八号と宮古が触雷して沈没、15日1時30分に旅順沖で吉野が春日に衝突されて沈没、16日には龍田が座礁、17日には事故で大島、触雷で暁を失った。
6月23日、旅順艦隊がウラジオストックへ向けて一旦出航するも、すぐに引き返した。
日本海軍の作戦に対する批判
編集開戦直後に行われた第一次攻撃について、不徹底であったとの批判がある。
- 肯定論
- 軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』 →成功した作戦。
- ジュリアン・コーベット『Marintime operations in the Rosso-Japanese War, 1904-1905.』 →目的通り、部分的な制海権を獲得した。
- 平野龍二「日露開戦劈頭における旅順口攻撃の再評価」 →当面の旅順艦隊の行動を抑制して陸軍の仁川上陸と韓国政治を有利に運び、朝鮮半島が確保された。その後も、制海権を握ることで第一軍主力の上陸や補給の成功に貢献した。
- 批判論
- 外山三郎『日露海戦史の研究』→奇襲のチャンスに第二撃が行われず、ロシア主力艦隊に決定的な打撃を与えられなかった。主力部隊が突入すれば全滅に近い戦果が期待できた。
- 大江志乃夫『世界史としての日露戦争』→思想と闘志に欠けていたため、戦果拡大が行なわれず、3度の閉塞作戦が必要になり、それも失敗した。
- 相沢淳「『奇襲断行』か『威力偵察』か?-旅順口奇襲作戦をめぐる対立-」2005年(『軍事史学 第号』)→軍令部の作戦方針の「奇襲断行」に反して「威力偵察」に終わり、旅順艦隊を撃ち漏らしたことで陸軍の大規模投入と犠牲が強要された。
脚注
編集- ^ 戸高、2010年
参考文献
編集- 軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』1905~1911年(150冊・防衛研究所所蔵)
- 平野龍二「日露開戦劈頭における旅順口攻撃の再評価 -戦争目的達成の観点から-」2011年(『日本歴史 第759号』)
- 戸高一成『海戦からみた日露戦争』2010年 角川書店(角川oneテーマ21新書)