日比谷公園

東京都の公園
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日比谷公園(ひびやこうえん)は、東京都千代田区に所在する公園、および同公園を町域とする千代田区の町名である。郵便番号は100-0012。

日比谷公園

地図
分類 都市公園
所在地
座標 北緯35度40分25秒 東経139度45分22秒 / 北緯35.67361度 東経139.75611度 / 35.67361; 139.75611座標: 北緯35度40分25秒 東経139度45分22秒 / 北緯35.67361度 東経139.75611度 / 35.67361; 139.75611
面積 161,636.66 ㎡[1]
前身 大日本帝国陸軍近衛師団練兵場
開園 1903年6月1日
設計者 本多静六(総括)、本郷高徳福羽逸人(花壇)
運営者 東京都公園協会
2011~2015年度指定管理者
現況 年中開放
設備・遊具 日比谷公会堂大音楽堂、小音楽堂、陳列場、日比谷図書文化館、テニスコート、児童遊園、軽飲食店、緑と水の市民カレッジ
駐車場 あり(公園とは別管理)
アクセス 霞ケ関駅日比谷駅内幸町駅徒歩2分、有楽町駅徒歩8分
事務所 日比谷公園管理所
事務所所在地 東京都千代田区日比谷公園1番6号
備考 日本初の近代的洋風公園[1]
公式サイト 東京都公園協会
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公園としては日本初の近代的洋風公園である[1]東京都建設局が所管する都立公園であり、東京都公園協会に管理を委託している。2007年(平成19年)には景観法の景観重要公共施設(景観重要都市公園)に指定された[1]

概要

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日比谷地名を冠する施設・エリアの一つである(住所については「日比谷公園(町名)」で後述)。霞が関有楽町内幸町と隣接し、銀座にも近い。日比谷公園東側の日比谷通り一帯が「日比谷」と呼ばれる(行政の住所上は有楽町・内幸町)。

総合公園としては「都立日比谷公園」と称する[1]。都市計画上は北の丸公園皇居外苑、日比谷公園などを合わせて「東京都市計画公園第9・6・6号中央公園」となっている(計画面積176.2ha)[1]。この都市計画中央公園の区域のうち、東京都では皇居外縁南東部の約16haに都立日比谷公園を開設している[1]

公園面積は161,636.66 ㎡である(2021年12月1日現在)[1]東京ドーム(1.3ヘクタール)と並んで、かつては「日比谷公園何個分」など、敷地面積の尺度とされることが多かった(例:バチカン市国は日比谷公園3個分[2])。

自然環境としては、芝生や樹林地、池などに身近な生物が見られ、皇居以外に自然植生の少ない千代田区において貴重な自然的環境の空間となっている[1]

社会的環境としては、北側に日比谷濠を挟んで皇居前広場、西側に中央官庁街、東側や南側は主にビジネス街である[1]

日比谷公園ガーデニングショーを始めとし、各種物産、文化・音楽、園芸、鉄道、スポーツなどのイベントや展示も多く開かれる[3]テレビドラマの撮影地として使用されることも多い。

霞が関にある東京地方裁判所公判傍聴希望者殺到が予想される場合、傍聴席の抽選は庁舎近くの日比谷公園で実施されている。

園内

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園内の主要な施設として、市政会館および日比谷公会堂、野音の聖地である大小の野外音楽堂日比谷図書文化館(旧:東京都立日比谷図書館)、「緑と水の市民カレッジ」、レストラン&結婚式場『日比谷パレス(旧:結婚式場 高柳亭)』、貸切結婚式場フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼、売店などがある[4]。また園内に生える多くの樹木と大小の花壇が、四季折々の花と緑で都市生活者や観光客の目を楽しませている。

首かけイチョウ
園内にある推定樹齢 400 年、幹回り 650cmのイチョウ[1]1901年(明治34年)の日比谷通りの拡張工事では伐採されることになっていたが、公園の主設計者である本多静六が「私の首を賭けても移植する」として園内に移された[1]
日比谷見附跡
江戸城の名残りを公園設計に取り入れ、日比谷見附跡や堀を利用した心字池などがある[1]
ハナミズキ
アメリカへ贈られポトマック河畔に植えられたサクラの返礼としてハナミズキが贈呈され、日比谷公園などに植えられた(日比谷公園内の樹は後継樹)[1]
記念碑・彫刻
各種の記念碑や彫刻、米国から贈られた自由の鐘などがある[1]
ホセ・リサール像(フィリピンの独立運動家)、ルーパ・ロマーナ(ローマの狼、ローマの建国神話ロームルスとレムスを育てたとされる)、ルーン石碑に模した「古代スカンジナビア碑」、南極の石など各種の記念碑・物が寄贈されている。

東京都地域防災計画により、地区内残留地区(全域)、災害時臨時離着陸場候補地(第二花壇)、一時滞在施設(緑と水の市民カレッジ)などに指定されている[1]。また、千代田区地域防災計画により北西側エリアは災害時退避場所になっている[1]。公園内には災害用給水槽(有効水量1,500立方メートル)が設置されている。定水位弁による引き入れと循環ポンプによる引き出しで、給水槽内のは常に新鮮な状態に保たれている。応急給水口が用意され、震災時は清廉な水道水を無償で給水する。

歴史

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公園計画

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官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたが、元々日比谷入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断された。同年11月、内務省東京市区改正委員会において古市公威と芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示された[5]

日本の公園制度は1873年(明治6年)の太政官布達第16号に遡るが、上野公園芝公園など寺社境内の公園化が中心で、日本人で一から新しく公園を造るのは全く初めての試みだった。1893年(明治26年)に東京市から払下げを受け、告示第六号により跡地は正式に日比谷公園と命名された。

同年に東京市により設計案が出されたが内部検討に終わり、更に1894年(明治27年)6月の日本園芸会が小平義近による甲乙案、田中芳男による丙案という三案を提出したが、採用されなかった。1897年(明治30年)に公園改良取調委員会が設置され、1898年(明治31年)の長岡安平による案が、1899年(明治32年)8月の辰野金吾による案が検討されたが、いずれも採用されなかった[5]

 
1907年発行の『東京案内』より

1900年(明治33年)に東京市吏員5名が案を提出するが、またしても不採用だった。その後1901年(明治34年)、辰野金吾により本多静六が推挙され[6][7]石黒忠悳福羽逸人小沢圭次郎等とともに日比谷公園造園委員会が設置され、結局、造園委員でもありドイツ留学を終えたばかりの本多を中心として立案することとなった[8]。本多は留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指した一方で、江戸城に連なっていたを埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残した。心字池ではかつての石垣の一部を今でも見ることができる。ついにこの案が採用となり、本郷高徳により図面が起こされ[9]1902年(明治35年)4月に着工。翌年6月1日に仮開園を迎えた[10]

開園後

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早くも開園と同年に洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(後のパークセンター)、結婚式場高柳亭(現・日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現・レストランなんぶ)、植木屋などが出店し、戦後も営業する店舗の多くが出揃っている。日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実した。

1905年(明治38年)8月、野外音楽堂が竣工(現在の野外小音楽堂に位置)[1]1923年大正12年)7月に野外大音楽堂が完成した[1]

園内の花や樹木を盗まれることが多かったため、開園後2か月で深夜開放が禁止された。[要出典]

開園後には、日露戦争祝賀会や西園寺公望山本五十六など政府・軍要人の国葬大隈重信国民葬の開催場所として政府などに積極的に活用された一方で、大正デモクラシーの中、東京市電賃上げ反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなった。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に対する日比谷焼打事件など、暴動に発展する事件も多々起こった。

1908年7月11日『読売新聞』には「昨今夜の日比谷公園、堕落男女の野合場と化す。毎夜密行巡査十数人、醜行取締りに出動」とある。

同年日本統治下の台湾に初の近代的公園として日比谷公園を模した新公園(台北公園)が作られた[11]

関東大震災

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1923年(大正12年)の関東大震災では日比谷公園も被災し、小音楽堂が倒壊、松本楼が焼失した[10]。一方で、直前に建てられた大音楽堂は倒壊を免れた。

運動場には被災民が仮設住宅144軒に身を寄せ、被災者遺体の仮埋葬も行われた。仮設住宅は翌年に撤去された。

戦前・戦中

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1940年昭和15年)12月5日西園寺公望国葬が行われる[12]

太平洋戦争下の1942年(昭和17年)、日比谷公園は軍用地となった。真鍮製の外柵は金属供出に出され、松本楼は海軍省将校宿舎として利用された。食糧難のため、花壇ではジャガイモが栽培された[10]

戦後

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戦後日比谷第一生命ビルの近くで軍用地でもあった日比谷公園は、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の接収を受け「Doolittle Field(ドーリットル・フィールド)[13]」と名づけられ、松本楼は米軍宿舎として利用された。 一方で接収期間中の1945年(昭和20年)11月1日には、餓死対策国民大会も開催された[14]1951年昭和26年)接収が解け、再整備が始まった。

2000年代以降

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2003年(平成15年)には日比谷公園100周年記念事業が開催された[1]。その一環で2003年から2008年にかけてベンチの背もたれのプレートに寄付者のメッセージを刻んだ「思い出ベンチ」が設置された[15]

2021年(令和3年)7月に東京都は「都立日比谷公園再生整備計画」を策定[15]。第2花壇周辺では段差や柵を取り払い、誰でも自由に入れる芝庭広場にすることになった[15]。再整備に伴い公園内に設置されていた「思い出ベンチ」202基(老朽化により工事前に撤去されていた1基を除く)は撤去されることになった[15]

沿革史

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  • 1950年(昭和25年)、東京都知事安井誠一郎の要請により帝国ホテル内の植木屋芳梅園が日比谷公園に出店し、日比谷花壇となった。
  • 1954年(昭和29年)11月 - 大音楽堂を復旧[1]
  • 1957年(昭和32年)10月 - 日比谷図書館を再建[1]
  • 1961年(昭和36年)9月 - 大広場に噴水とテラス付沈床芝生園が完成[1]
  • 1971年(昭和46年) - 沖縄返還運動により松本楼が全焼。1973年(昭和48年)に再建された。
  • 1982年(昭和57年) - 児童園とプールが廃止されて健康運動広場となる。
  • 1983年(昭和58年)6月 - 小音楽堂が建替えられる[1]
  • 2011年平成23年)7月1日、東京都から千代田区へ移管された日比谷図書館が、「日比谷図書文化館」として開館した。
  • 2018年(平成30年)
    • 11月23日、ランニングの拠点と飲食店を併設した「スポーツステーション&カフェ」が開館[16]
    • 12月26日、都は、2033年の開園130周年に向け、「グランドデザイン」を発表。設備の老朽化が進んだため学識経験者らによる検討会で活用策を議論。公会堂の改修、野外音楽堂の建替え、皇居周辺との連携などを検討する[17]
  • 2021年(令和3年)7月 - 「都立日比谷公園再生整備計画」を策定[15]

ギャラリー

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イベント・事件など

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日比谷公園(町名)

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日比谷公園の区域には、1967年(昭和42年)4月、住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施され、「千代田区日比谷公園」が正式の町名となっている。「丁目」の設定はなく、全域が日比谷公園1番街区である。主な施設の住所は、日比谷公会堂と市政会館が日比谷公園1番3号、日比谷図書文化館が同1番4号、公園事務所が同1番6号である。1番1号、1番2号、1番5号は公園内に所在するレストラン結婚式場等の住所になっている。

アクセス

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地下に有料駐車場を備える。

公共交通機関では、公園の四方に鉄道駅がある。霞ケ関駅東京メトロ丸ノ内線千代田線)、日比谷駅東京メトロ日比谷線・千代田線および都営地下鉄三田線)が最寄り。このほかJR有楽町駅[21]東京メトロ銀座線虎ノ門駅から徒歩圏内である。

周辺の施設

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 日比谷公園マネジメントプラン 東京都建設局(2022年3月)
  2. ^ 【バチカン市国】世界最小の独立国家 (バチカン)”. 旅行のクチコミサイト フォートラベル. 2023年9月21日閲覧。
  3. ^ 日比谷公園/お知らせ一覧の「イベント情報」参照(2018年12月2日閲覧)。
  4. ^ 日比谷公園/施設について(2018年12月2日閲覧)。
  5. ^ a b 東京の洋風化を支えた「日比谷公園」
  6. ^ 辰野 「君は公園のことをそんなに知ってゐるのか、自分は建築のことならともかく、公園の方はまったく初めてだ、実は東京市では日比谷の練兵場跡に大公園を造ることになり、数年来庭師や茶の宗匠などに設計してもらったが、どれもこれも市会を通らない、君一つやってくれないか」(本多静六『体験八十五年』)。辰野金吾に声を掛けられた本多はこうして日比谷公園を造ることになった、武智ゆり, 「日本初の洋式公園 日比谷公園」『近代日本の創造史』 8巻 2009年 p.26-27, doi:10.11349/rcmcjs.8.26
  7. ^ 名城大学農学部教授丸山宏の研究によると、「平安神宮の設計をした伊東忠太が日比谷公園の設計作業を持て余し、本多静六に代役を頼み、彼が引き受けて、短時間で仕上げたようです。」緑のまちづくりフォーラム(平成29年10月22日)
  8. ^ goldhead (1514292488). “日比谷公園、あるいは明治のモラル”. 関内関外日記. 2020年4月2日閲覧。
  9. ^ 上原敬二著, 「この目で見た造園発達史」(「この目で見た造園発達史」 刊行会, 昭和58年)によると、設計案作成にあたって設計製図面は農科大学森林工学教室の助手であった宮川八十八の原案図を本多らが改作した。
  10. ^ a b c 日比谷公園の成立ち 都市研究センター研究理事 山 口 智
  11. ^ 臺北廳長加福豐次與臺灣近代休閒場所的誕生故事、2016.7.16
  12. ^ 日比谷公園の葬場に長蛇の会葬者(昭和15年12月6日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p214 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  13. ^ 【ここが70年前の表参道】終戦直後の東京が鮮やかに。カメラがとらえたフルカラー写真18枚
  14. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、348頁。ISBN 4-00-022512-X 
  15. ^ a b c d e 愛する人へ、在りし日へ…思い刻まれた「思い出ベンチ」撤去始まる 日比谷公園の再生整備事業で 惜しむ声も 東京新聞(2023年9月27日)
  16. ^ 「ランニングの拠点とカフェ 日比谷公園にきょうオープン」『毎日新聞』朝刊2018年11月23日(東京面)2018年12月2日閲覧。
  17. ^ 『日比谷公園 街と連携』「都がグランドデザイン公表 来年度に整備計画」朝日新聞 東京、2018年12月27日、2018年12月28日閲覧。
  18. ^ 太平洋戦争の年表 社団法人 日本戦災遺族会 昭和54年度『全国戦災史実調査報告書』 2017年10月5日閲覧
  19. ^ 「日比谷(東京)に地下大駐車場」『交通新聞』交通協力会、1960年6月2日、2面。
  20. ^ 2012年は全国都市緑化フェア実施のため明治公園で開催。
  21. ^ 日比谷公園/アクセス(2018年12月2日閲覧)。

関連項目

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外部リンク

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