牧野直隆
鹿児島県出身の野球選手、指導者、日本高等学校野球連盟会長
牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 2006年7月18日)は、鹿児島県出身の野球選手、指導者、日本高等学校野球連盟会長。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1910年10月6日 |
没年月日 | 2006年7月18日(95歳没) |
選手情報 | |
ポジション | 遊撃手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1996年 |
選出方法 | 特別表彰 |
この表について
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来歴
編集慶應義塾商工学校から慶應義塾大学経済学部卒業。慶大野球部では主将・遊撃手として活躍。水原茂と三遊間コンビを組んだ。水原リンゴ事件の際には主将として混乱の収拾にあたり、早慶戦、大学野球の灯りを死守した。
1934年に鐘淵紡績に入社した後もアマチュア野球選手としてプレーを続け、同年の第8回全日本都市対抗野球大会では三原脩と共に全大阪チームのメンバーとして出場して優勝したほか、アメリカ・大リーグ選抜が2度目の来日をした際には全日本チームのメンバーに選ばれた経験も持つ。
戦後は、全鐘紡監督として1950年から都市対抗野球3連覇を果たす。1951年度の大会ではプロ球団南海ホークスの二軍選手が出向していた南海土建野球部と対戦した。前後して、東京六大学野球で審判員も務めた。
1981年、佐伯達夫の死去を受けて第4代日本高等学校野球連盟会長に就任。2002年11月に勇退するまで、11期21年の長期にて会長を務めた。その間、不祥事に対する連帯責任の緩和、外国人学校への門戸開放など高校野球の体質改善に努めた。
略歴
編集関連項目
編集- 八十川ボーク事件 - 1931年5月18日の東京六大学野球春季リーグ戦・慶明2回戦で起きた、明治大学投手:八十川胖のボークの判定を巡るトラブル。このボーク判定の際に慶應の打者として打席に入っていたのが牧野であった。
- 松井秀喜5打席連続敬遠 - 1992年8月16日に阪神甲子園球場で行われた第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾高等学校(高知)対星稜高等学校(石川)戦での出来事。当時牧野は高野連会長を務めており、試合後に談話を発表した。
- かみじょうたけし - 高校野球のファンとして知られる松竹芸能所属のピン芸人。声帯模写の十八番の1つに、牧野が高野連会長時代に臨んだ全国高等学校野球選手権大会閉会式での「閉会の挨拶」がある。