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{{otheruses|1900年生の人物|旧芸名が伊丹万作の人物|池内万作}} |
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{{ActorActress |
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| 芸名 = 伊丹 万作 |
| 芸名 = 伊丹 万作 |
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| ふりがな = いたみ まんさく |
| ふりがな = いたみ まんさく |
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| 別名義 = 水田 豊平 <small>(みずた とよへい)</small><br />池内 愚美 <small>(いけうち ぐみ)</small><br />青山 七造 <small>(あおやま しちぞう)</small> |
| 別名義 = 水田 豊平 <small>(みずた とよへい)</small><br />池内 愚美 <small>(いけうち ぐみ)</small><br />青山 七造 <small>(あおやま しちぞう)</small> |
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| 出生地 = {{JPN}}・[[愛媛県]][[松山市]]湊町2丁目 |
| 出生地 = {{JPN}}・[[愛媛県]][[松山市]]湊町2丁目 |
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| 死没地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]] |
| 死没地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]][[上京区]] |
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| 国籍 = |
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| 民族 = |
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| 活動期間 = [[1918年]] - [[1946年]] |
| 活動期間 = [[1918年]] - [[1946年]] |
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| 活動内容 = [[1918年]]:[[挿絵]]画家としてデビュー<br />[[1927年]]:[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]のもとで脚本を執筆<br />[[1928年]]:[[片岡千恵蔵プロダクション]]に入社、監督デビュー<br />[[1934年]]:[[新興キネマ]]に移籍<br />[[1937年]]:[[東宝映画]]に移籍 |
| 活動内容 = [[1918年]]:[[挿絵]]画家としてデビュー<br />[[1927年]]:[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]のもとで脚本を執筆<br />[[1928年]]:[[片岡千恵蔵プロダクション]]に入社、監督デビュー<br />[[1934年]]:[[新興キネマ]]に移籍<br />[[1937年]]:[[東宝映画]]に移籍 |
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| 配偶者 =池内キミ |
| 配偶者 =池内キミ([[1904年]] - [[2004年]]) |
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| 著名な家族 = 長男:[[伊丹十三]]<br />内孫:[[池内万作]]<br />内孫:[[池内万平]]<br />長女:[[大江ゆかり]]<br />女婿:[[大江健三郎]]<br />外孫:[[大江光]] |
| 著名な家族 = 長男:[[伊丹十三]]<br />内孫:[[池内万作]]<br />内孫:[[池内万平]]<br />長女:[[大江ゆかり]]<br />女婿:[[大江健三郎]]<br />外孫:[[大江光]] |
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| 事務所 = |
| 事務所 = |
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| 公式サイト = |
| 公式サイト = |
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| 主な作品 = 『[[國士無双]]』 / 『[[赤西蠣太#映画|赤西蠣太]]』<!--皆が認める代表作品を入力--> |
| 主な作品 = 『[[國士無双]]』 / 『[[赤西蠣太#映画|赤西蠣太]]』 / 『[[無法松の一生]]』<!--皆が認める代表作品を入力--> |
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| アカデミー賞 = |
| アカデミー賞 = |
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| AFI賞 = |
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| 備考 = |
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'''伊丹 万作'''(いたみ まんさく、[[1900年]][[1月2日]] - [[1946年]][[9月21日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]]、[[エッセイスト]]、[[イラストレーター|挿絵画家]]。本名 |
'''伊丹 万作'''(いたみ まんさく、[[1900年]]([[明治]]33年)[[1月2日]] - [[1946年]]([[昭和]]21年)[[9月21日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]]、[[エッセイスト]]、[[イラストレーター|挿絵画家]]。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 |
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「日本の[[ルネ・クレール]]<ref name="ノート">[http://www.kinenote.com/sp/public/cinema/person.aspx?person_id=94120 伊丹万作]、[[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]]、2015年2月3日閲覧</ref>」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]の勧めで映画界に入り<ref name="大百科">[https://kotobank.jp/word/伊丹万作-31150 伊丹万作]、[[日本大百科全書]]、[[コトバンク]]、2015年2月3日閲覧</ref>、[[片岡千恵蔵プロダクション]]へ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇<ref name="創造者">[[#佐藤2007|佐藤2007]]、p.49</ref> で[[稲垣浩]]とともに新生面を開いた<ref group="注釈">これらの時代劇は「髷をつけた現代劇」と呼ばれた</ref>。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した<ref name="大百科" />。主な監督作に『[[國士無双]]』『[[赤西蠣太#映画|赤西蠣太]]』、シナリオに『[[無法松の一生 (1943年の映画)|無法松の一生]]』『[[手をつなぐ子等]]』など。長男は映画監督・俳優の[[伊丹十三]]、長女は[[大江健三郎]]夫人の[[大江ゆかり]]、孫は作曲家の[[大江光]]、俳優の[[池内万作]]、[[池内万平]]。 |
「日本の[[ルネ・クレール]]<ref name="ノート">[http://www.kinenote.com/sp/public/cinema/person.aspx?person_id=94120 伊丹万作]、[[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]]、2015年2月3日閲覧</ref>」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]の勧めで映画界に入り<ref name="大百科">[https://kotobank.jp/word/伊丹万作-31150 伊丹万作]、[[日本大百科全書]]、[[コトバンク]]、2015年2月3日閲覧</ref>、[[片岡千恵蔵プロダクション]]へ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇<ref name="創造者">[[#佐藤2007|佐藤2007]]、p.49</ref> で[[稲垣浩]]とともに新生面を開いた<ref group="注釈">これらの時代劇は「髷をつけた現代劇」と呼ばれた</ref>。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した<ref name="大百科" />。主な監督作に『[[國士無双]]』『[[赤西蠣太#映画|赤西蠣太]]』、シナリオに『[[無法松の一生 (1943年の映画)|無法松の一生]]』『[[手をつなぐ子等]]』など。長男は映画監督・俳優の[[伊丹十三]]、長女は[[大江健三郎]]夫人の[[大江ゆかり]]、孫は作曲家の[[大江光]]、俳優の[[池内万作]]、[[池内万平]]。 |
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== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
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=== 挿絵画家から映画界へ === |
=== 挿絵画家から映画界へ === |
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[[1900年]](明治33年)[[1月2日]]、[[愛媛県]][[松山市]]湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる<ref name="作家1">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.245</ref><ref>[[#キネマ旬報1976|キネマ旬報1976]]、p.36</ref><ref name="記念館">[ |
[[1900年]](明治33年)[[1月2日]]、[[愛媛県]][[松山市]]湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる<ref name="作家1">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.245</ref><ref>[[#キネマ旬報1976|キネマ旬報1976]]、p.36</ref><ref name="記念館">[https://itami-kinenkan.jp/about/about05.html 伊丹万作]、[[伊丹十三記念館]]、2015年2月3日閲覧</ref>。後に2人の妹が産まれた<ref name="作家1" />。 |
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[[1906年]](明治39年)、松山第一尋常小学校(現在の[[松山市立番町小学校]])に入学、この秋に[[神戸]][[新開地]]の掛小屋で初めて[[活動写真]]を見る<ref name="作家1" />(この時に観た活動写真は、[[日露戦争]]の実写であった<ref name="作家1" /><ref name="傍観史">[[#伊丹1936|伊丹1936]]</ref>)。[[1912年]](大正元年)、[[旧制中学校|旧制]]愛媛県松山中学校(現在の[[愛媛県立松山東高等学校]])に入学。在学中に同窓の[[中村草田男]]、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[重松鶴之助]]らと回覧雑誌『楽天』を作り<ref name="記念館" />、雑誌の口絵や挿絵を描いた{{Refnest|group="注釈"|『楽天』は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという<ref>『中村草田男全集11』、みすず書房、1987年、p.160</ref>}}。 |
[[1906年]](明治39年)、松山第一尋常小学校(現在の[[松山市立番町小学校]])に入学、この秋に[[神戸]][[新開地]]の掛小屋で初めて[[活動写真]]を見る<ref name="作家1" />(この時に観た活動写真は、[[日露戦争]]の実写であった<ref name="作家1" /><ref name="傍観史">[[#伊丹1936|伊丹1936]]</ref>)。[[1912年]](大正元年)、[[旧制中学校|旧制]]愛媛県松山中学校(現在の[[愛媛県立松山東高等学校]])に入学。在学中に同窓の[[中村草田男]]、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[重松鶴之助]]らと回覧雑誌『楽天』を作り<ref name="記念館" />、雑誌の口絵や挿絵を描いた{{Refnest|group="注釈"|『楽天』は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという<ref>『中村草田男全集11』、みすず書房、1987年、p.160</ref>}}。 |
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[[1917年]](大正6年)3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と<ref name="記念館" /> 家庭の事情で<ref name="作家1" /> 父とともに[[樺太]]に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた<ref>[[#米田1985|米田1985]]、p.295</ref> が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷<ref name="創造者" />、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める[[鉄道院]]に勤務した<ref name="作家1" />。その傍ら独学で[[洋画]]を学んだ。 |
[[1917年]](大正6年)3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と<ref name="記念館" /> 家庭の事情で<ref name="作家1" /> 父とともに[[樺太]]に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた<ref>[[#米田1985|米田1985]]、p.295</ref> が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷<ref name="創造者" />、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める[[鉄道院]]に勤務した<ref name="作家1" />。その傍ら独学で[[絵画|洋画]]を学んだ。 |
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翌[[1918年]](大正7年)、鉄道院を退職し<ref name="作家1" /><ref name="記念館" />、2月に少年向け雑誌『[[少年世界]]』でに[[石黒露雄]]の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする<ref name="挿絵"> |
翌[[1918年]](大正7年)、鉄道院を退職し<ref name="作家1" /><ref name="記念館" />、2月に少年向け雑誌『[[少年世界]]』でに[[石黒露雄]]の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする<ref name="挿絵">{{cite journal|和書|author=古川千家 |date=2008 |url=https://ehime-u.repo.nii.ac.jp/records/2385 |title=挿絵画家時代の伊丹万作の仕事 |journal=愛媛大学法文学部論集. 人文学科編 |ISSN=1341-9617 |publisher=愛媛大学法文学部 |volume=25 |pages=23-66 |CRID=1050860708481592064}}</ref>。同月の誌上には'''池内都夜坊'''の名で『ゴリラとピンくん』という[[漫画]]も掲載している<ref name="挿絵" />。その後は本名の'''池内義豊'''の名で『少年世界』の挿絵を担当し、[[1919年]](大正8年)には'''水田豊平'''のペンネームで『中学生』の挿絵も描いている。[[1920年]](大正9年)からは同年刊行の『[[新青年 (日本)|新青年]]』『女学生』の2誌も担当し、計4誌で挿絵を描いた。この頃から'''池内愚美'''の筆名を使っていた。 |
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同年、映画製作の事業に乗り出した[[松竹]]が[[松竹キネマ俳優学校]]の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と[[本郷区]][[根津|根津須賀町]]の下宿2階3畳で同居生活を始める<ref name="傍観史" /><ref name="作家2">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.246</ref>{{Refnest|group="注釈"|「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。<ref name="傍観史" />」}}。しかし、翌[[1921年]](大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、[[谷中 (台東区)|谷中真島町]]の下宿で別々の部屋に暮らした<ref name="傍観史" />。同年5月、補充兵として[[広島市|広島]]の野砲連隊に3ヶ月間入営した<ref name="挿絵" />。 |
同年、映画製作の事業に乗り出した[[松竹]]が[[松竹キネマ俳優学校]]の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と[[本郷区]][[根津|根津須賀町]]の下宿2階3畳で同居生活を始める<ref name="傍観史" /><ref name="作家2">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.246</ref>{{Refnest|group="注釈"|「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。<ref name="傍観史" />」}}。しかし、翌[[1921年]](大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、[[谷中 (台東区)|谷中真島町]]の下宿で別々の部屋に暮らした<ref name="傍観史" />。同年5月、補充兵として[[広島市|広島]]の野砲連隊に3ヶ月間入営した<ref name="挿絵" />。 |
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[[1922年]](大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役<ref name="挿絵" /> し、その後伊藤と[[青山 (東京都港区)|青山南町]]で再び同居生活を始めた<ref name="作家2" />。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優は[[フランク・キーナン]]だったという<ref name="傍観史" /><ref name="エッセイ">伊丹万作・[[大江健三郎]]編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298</ref>。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという<ref name="作家2" />。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の[[野田実]]を見舞うために松山に帰省する<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" />{{Refnest|group="注釈"|「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。<ref name="傍観史" />」}}。 |
[[1922年]](大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役<ref name="挿絵" /> し、その後伊藤と[[青山 (東京都港区)|青山南町]]で再び同居生活を始めた<ref name="作家2" />。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優は[[フランク・キーナン]]だったという<ref name="傍観史" /><ref name="エッセイ">伊丹万作・[[大江健三郎]]編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298</ref>。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという<ref name="作家2" />。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の[[野田実]]を見舞うために松山に帰省する<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" />{{Refnest|group="注釈"|「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。<ref name="傍観史" />」}}。 |
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[[1923年]](大正12年)、[[関東大震災]]後に上京、[[長崎町 (東京府)|長崎村]]に[[初山滋]]と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" /><ref name="エッセイ" />。[[1925年]](大正14年)、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱樂』を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する<ref name="記念館" />。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、[[1926年]](大正15年)には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町に[[おでん]]屋「瓢太郎」を開店する<ref name="記念館" />{{Refnest|group="注釈"|「瓢太郎」は松山最初のおでん屋と言われている<ref name="傍観史" />}}。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、[[1927年]](昭和2年)夏に借金を残して閉店した<ref name="傍観史" /><ref>[ |
[[1923年]](大正12年)、[[関東大震災]]後に上京、[[長崎町 (東京府)|長崎村]]に[[初山滋]]と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした<ref name="挿絵" /><ref name="作家2" /><ref name="エッセイ" />。[[1925年]](大正14年)、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱樂』を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する<ref name="記念館" />。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、[[1926年]](大正15年)には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町に[[おでん]]屋「瓢太郎」を開店する<ref name="記念館" />{{Refnest|group="注釈"|「瓢太郎」は松山最初のおでん屋と言われている<ref name="傍観史" />}}。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、[[1927年]](昭和2年)夏に借金を残して閉店した<ref name="傍観史" /><ref>[https://itami-kinenkan.jp/tayori/2011/01/000145.html 記念館便り「昭和2年のお正月」]、伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧</ref>。同年、知人夫妻を描いた[[油絵|油彩画]]『市河夫妻之像』が[[岸田劉生]]の目に留まり、激賞される。この絵は中村草田男によって第1回大調和美術展に搬入され入選したが、画家の道は断念している<ref name="記念館" />。 |
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同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった<ref name="作家3">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.247</ref>。当時伊藤の食客だった人に[[香川良介]]と[[中川藤吉]]<Ref group="注釈">『私の活動写真傍観史』では、中川は『[[下郎 (映画)|下郎]]』の作者と紹介されている</ref> がいる<ref name="傍観史" />。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『[[花火 (1931年の映画)|花火]]』と『[[放浪三昧|伊達主水]]』<Ref group="注釈">[[1928年]](昭和3年)に[[稲垣浩]]監督が『放浪三昧』の題で映画化した</ref> を執筆する<ref name="創造者" /><ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。11月、[[奈良]]に[[谷崎十郎]]プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。 |
同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった<ref name="作家3">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.247</ref>。当時伊藤の食客だった人に[[香川良介]]と[[中川藤吉]]<Ref group="注釈">『私の活動写真傍観史』では、中川は『[[下郎 (映画)|下郎]]』の作者と紹介されている</ref> がいる<ref name="傍観史" />。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『[[花火 (1931年の映画)|花火]]』と『[[放浪三昧|伊達主水]]』<Ref group="注釈">[[1928年]](昭和3年)に[[稲垣浩]]監督が『放浪三昧』の題で映画化した</ref> を執筆する<ref name="創造者" /><ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。11月、[[奈良]]に[[谷崎十郎]]プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った<ref name="傍観史" /><ref name="作家3" />。 |
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[[1932年]](昭和7年)、[[伊勢野重任]]原作の『[[國士無双]]』を監督。本物の剣豪が贋物に敗れるという内容で、その知的で諧謔に満ちたユーモアが注目を浴びた。また、この作品は「これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ<ref name="ノート" />」と絶賛され、[[キネマ旬報ベスト・テン]]に第6位でランクインした。続いて[[村松梢風]]原作の『[[人間飢饉]]』を脚色・監督した『[[人間飢饉#映画|闇討渡世]]』を発表し、風刺と諧謔の精神で[[平手造酒]]の孤独を描いたが<ref>[https://kotobank.jp/word/《闇討渡世》-1430419 時代劇映画]、[[世界大百科事典]]、コトバンク、2015年2月3日閲覧</ref>、検閲により大幅にカットされた<ref name="記念館" />。 |
[[1932年]](昭和7年)、[[伊勢野重任]]原作の『[[國士無双]]』を監督。本物の剣豪が贋物に敗れるという内容で、その知的で諧謔に満ちたユーモアが注目を浴びた。また、この作品は「これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ<ref name="ノート" />」と絶賛され、[[キネマ旬報ベスト・テン]]に第6位でランクインした。続いて[[村松梢風]]原作の『[[人間飢饉]]』を脚色・監督した『[[人間飢饉#映画|闇討渡世]]』を発表し、風刺と諧謔の精神で[[平手造酒]]の孤独を描いたが<ref>[https://kotobank.jp/word/《闇討渡世》-1430419 時代劇映画]、[[世界大百科事典]]、コトバンク、2015年2月3日閲覧</ref>、検閲により大幅にカットされた<ref name="記念館" />。 |
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[[1933年]](昭和8年)、自身初の[[トーキー映画|トーキー]]となる予定だった『江戸ッ子神楽』の撮影を行うが、[[片岡千恵蔵]]と意見が衝突し撮影は中止となる<ref name="作家5">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.249</ref><ref name="映画史">佐藤忠男『映画史研究』</ref>。代わって[[佐伯清]]が書いたシナリオを脚色した『渡鳥木曾土産』を監督し、続いて[[山手樹一郎]]原作の『[[一年余日]]』を脚色・監督した『[[一年余日#映画|武道大鑑]]』を年またぎで製作。『武道大鑑』製作後の[[1934年]](昭和9年)、伊藤監督の『[[忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇]]』で脚本と応援監督を務めたのを経て、5月に千恵プロを退社して[[新興キネマ]]に移籍<ref name="記念館" /><ref name="作家5" />。[[1935年]](昭和10年)に移籍第1作で、自身初のトーキーとなる『[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]』を発表。同年、千恵プロに出向して『[[戦国奇譚 気まぐれ冠者]]』を脚本・監督した<ref>[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.250</ref><ref>[ |
[[1933年]](昭和8年)、自身初の[[トーキー映画|トーキー]]となる予定だった『江戸ッ子神楽』の撮影を行うが、[[片岡千恵蔵]]と意見が衝突し撮影は中止となる<ref name="作家5">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.249</ref><ref name="映画史">佐藤忠男『映画史研究』</ref>。代わって[[佐伯清]]が書いたシナリオを脚色した『渡鳥木曾土産』を監督し、続いて[[山手樹一郎]]原作の『[[一年余日]]』を脚色・監督した『[[一年余日#映画|武道大鑑]]』を年またぎで製作。『武道大鑑』製作後の[[1934年]](昭和9年)、伊藤監督の『[[忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇]]』で脚本と応援監督を務めたのを経て、5月に千恵プロを退社して[[新興キネマ]]に移籍<ref name="記念館" /><ref name="作家5" />。[[1935年]](昭和10年)に移籍第1作で、自身初のトーキーとなる『[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]』を発表。同年、千恵プロに出向して『[[戦国奇譚 気まぐれ冠者]]』を脚本・監督した<ref>[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.250</ref><ref>[https://www.nikkatsu.com/movie/13329.html 戦国奇譚 気まぐれ冠者]、日活作品データベース、2015年2月3日閲覧</ref>。 |
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[[1936年]](昭和11年)、千恵プロの日活提携復帰作品となった『[[赤西蠣太]]』を監督。[[志賀直哉]]の短編小説を原作に、[[伊達騒動]]を背景に醜男の武士の恋を描いたこの作品は、作者の志賀本人も大絶賛し<ref name="創造者" />、キネマ旬報ベスト・テン第5位になるなど高い評価を受けた。伊丹にとっても『國士無双』と並ぶ代表作となった。 |
[[1936年]](昭和11年)、千恵プロの日活提携復帰作品となった『[[赤西蠣太]]』を監督。[[志賀直哉]]の短編小説を原作に、[[伊達騒動]]を背景に醜男の武士の恋を描いたこの作品は、作者の志賀本人も大絶賛し<ref name="創造者" />、キネマ旬報ベスト・テン第5位になるなど高い評価を受けた。伊丹にとっても『國士無双』と並ぶ代表作となった。 |
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同年、[[アーノルト・ファンク]]監督の日独合作『[[新しき土]]』で共同監督に要請され、万作は「自分の本領はシナリオにあって、監督にはない」と主張して固辞するがきかれず<ref name="映画史" /><ref name="作家6">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.251</ref>、共同監督を務めることになった。しかし、脚本執筆時からファンクとは意見が対立し、万作はファンクとは別に作品を撮り、結果、ファンク版(ドイツ版)と伊丹版(米英版)の異なるバージョンが完成した<ref>[http://hara-eiga.com/news/news.html 原節子主演 映画「新しき土」公式HP]、2015年2月3日閲覧</ref>。万作は「撮影には二倍の時間と労力を費やし、一年間の精力を意もなく浪費したのである<ref>[[#伊丹1961|伊丹1961]]、p.246</ref>」と本作のことを語っており、彼の失敗作となった。 |
同年、[[アーノルト・ファンク]]監督の日独合作『[[新しき土]]』で共同監督に要請され、万作は「自分の本領はシナリオにあって、監督にはない」と主張して固辞するがきかれず<ref name="映画史" /><ref name="作家6">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.251</ref>、共同監督を務めることになった。しかし、脚本執筆時からファンクとは意見が対立し、万作はファンクとは別に作品を撮り、結果、ファンク版(ドイツ版)と伊丹版(米英版)の異なるバージョンが完成した<ref>[http://hara-eiga.com/news/news.html 原節子主演 映画「新しき土」公式HP]、2015年2月3日閲覧</ref>。万作は「撮影には二倍の時間と労力を費やし、一年間の精力を意もなく浪費したのである<ref>[[#伊丹1961|伊丹1961]]、p.246</ref>」と本作のことを語っており、彼の失敗作となった。 |
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[[1937年]](昭和12年)、[[J.O.スタヂオ]]で[[金子洋文]]原作の『[[ふるさと (戯曲)#映画|故郷]]』と、[[岡本綺堂]]原作の『[[権三と助十#映画|権三と助十]]』を脚色・監督。同年[[9月10日]]、J.O.スタヂオと他3社<Ref group="注釈">他の3社は、[[ピー・シー・エル映画製作所]]、東宝映画配給、[[写真化学研究所]]</ref> の合併で[[東宝映画]]が設立され、万作は[[東宝スタジオ|東宝映画東京撮影所]]に移籍する。同年、初の著作集『影画雑記』が出版される<ref name="記念館" />。[[1938年]](昭和13年)、『[[レ・ミゼラブル]]』を翻案した<ref name="創造者" /><ref name="作家6" />『[[巨人傳]]』を脚本・監督するが、これが最後の監督作品となり、公開後に肺結核を患って闘病生活を送った。 |
[[1937年]](昭和12年)、[[J.O.スタヂオ]]で[[金子洋文]]原作の『[[ふるさと (戯曲)#映画|故郷]]』と、[[岡本綺堂]]原作の『[[権三と助十#映画|権三と助十]]』を脚色・監督。同年[[9月10日]]、J.O.スタヂオと他3社<Ref group="注釈">他の3社は、[[ピー・シー・エル映画製作所]]、東宝映画配給、[[写真化学研究所]]</ref> の合併で[[東宝映画]]が設立され、万作は[[東宝スタジオ|東宝映画東京撮影所]]に移籍する。同年、初の著作集『影画雑記』が出版される<ref name="記念館" />。[[1938年]](昭和13年)、『[[レ・ミゼラブル]]』を翻案した<ref name="創造者" /><ref name="作家6" />『[[巨人傳]]』を脚本・監督するが、これが最後の監督作品となり、公開後に肺結核を患い、京都にあった伊藤大輔の邸宅を借り受けて闘病生活を送った。以降は、映画雑誌に時評やエッセイを寄稿しつつ、シナリオ執筆の日々を送ることになる<ref>春日太一、『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』、株式会社文藝春秋、2023年11月30日発行、P55。</ref>。 |
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[[1940年]](昭和15年)、東宝を退社し<ref name="記念館" />、[[1941年]](昭和16年)2月に[[角川大映スタジオ|日活多摩川撮影所]]に移籍、再起の作品として[[岩下俊作]]の『富島松五郎伝』を『いい奴』の題名でシナリオ化するが、健康が優れない理由から企画段階で見送られた<ref>[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou19/kiyou19-14.pdf 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)]、2015年2月3日閲覧</ref>。 |
[[1940年]](昭和15年)、東宝を退社し<ref name="記念館" />、[[1941年]](昭和16年)2月に[[角川大映スタジオ|日活多摩川撮影所]]に移籍、再起の作品として[[岩下俊作]]の『富島松五郎伝』を『いい奴』の題名でシナリオ化するが、健康が優れない理由から企画段階で見送られた<ref>[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou19/kiyou19-14.pdf 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)]、2015年2月3日閲覧</ref>。 |
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[[1942年]](昭和17年)、戦時統合による合併で日活は[[大映]]となり、万作は大映所属となる。同年、[[山本有三]]原作の『不惜身命』を脱稿し、映画化も企画されるが、[[情報局]]の事前脚本審査で却下された<ref name="記念館" />。[[1943年]](昭和18年)、『いい奴』が稲垣浩によって『[[無法松の一生 (1943年の映画)|無法松の一生]]』の題名で公開される。同年、[[恩田民親|恩田木工]]原作の『木綿太平記』を執筆し、[[五所平之助]]監督によって映画化が予定されたが、再び情報局の事前脚本審査で却下された<ref name="記念館" /><ref name="作家7">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.253</ref>。11月、[[山口県]][[屋代島]](周防大島)に転地療養<ref name="作家7" />。 |
[[1942年]](昭和17年)、戦時統合による合併で日活は[[大映]]となり、万作は大映所属となる。同年、[[山本有三]]原作の『不惜身命』を脱稿し、映画化も企画されるが、[[情報局]]の事前脚本審査で却下された<ref name="記念館" />。[[1943年]](昭和18年)、『いい奴』が稲垣浩によって『[[無法松の一生 (1943年の映画)|無法松の一生]]』の題名で公開される。同年、[[恩田民親|恩田木工]]原作の『木綿太平記』を執筆し、[[五所平之助]]監督によって映画化が予定されたが、再び情報局の事前脚本審査で却下された<ref name="記念館" /><ref name="作家7">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.253</ref>。11月、[[山口県]][[屋代島]](周防大島)に転地療養<ref name="作家7" />。 |
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[[1944年]](昭和19年)、シナリオ『[[手をつなぐ子等]]』を執筆。翌[[1945年]](昭和20年)、遺稿『東海道膝栗毛』([[依田義賢]]原作)を執筆し、大映の[[1946年]](昭和21年)度の正月映画に予定されるが、連合軍総司令部民間情報教育局([[民間情報教育局|CEI]])の検閲により映画化不許可となった<ref name="記念館" /><ref>『戦後京都のあゆみ』、京都民報社、1988年、p.183</ref>。 |
[[1944年]](昭和19年)、シナリオ『[[手をつなぐ子等]]』を執筆。翌[[1945年]](昭和20年)、遺稿『東海道膝栗毛』([[依田義賢]]原作)を執筆し、大映の[[1946年]](昭和21年)度の正月映画に予定されるが、連合軍総司令部民間情報教育局([[民間情報教育局|CEI]])の検閲により映画化不許可となった<ref name="記念館" /><ref>『戦後京都のあゆみ』、京都民報社、1988年、p.183</ref>。1946年『映画春秋』8月号に「戦争責任の問題」を発表<ref>{{Cite book |和書 |author=岩波書店編集部 編|title=近代日本総合年表 第四版 |publisher=岩波書店 |year=2001-11-26 |page=353 |isbn=4-00-022512-X}}</ref>。 |
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[[1946年]](昭和21年)、6月頃から[[田中正造]]の生涯を描く構想を練っていたが<ref name="ノート" />、病状が悪化し、同年[[9月21日]]午後6時30分、伊藤大輔と妻子に看取られながら、[[京都市]] |
[[1946年]](昭和21年)、6月頃から[[田中正造]]の生涯を描く構想を練っていたが<ref name="ノート" />、病状が悪化し、同年[[9月21日]]午後6時30分、伊藤大輔と妻子に看取られながら、[[京都市]][[上京区]]の自宅で死去<ref name="作家7" />。満46歳没。辞世の句は「病臥九年更に一夏を耐へんとす」<ref>[https://kotobank.jp/word/伊丹万作-31150 伊丹万作]、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2015年2月3日閲覧</ref>。 |
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万作は、脚本家として弟子を取らなかったが、[[橋本忍]]だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。伊丹の助監督から後年名を成した監督としては[[市川崑]]がいる。 |
万作は、脚本家として弟子を取らなかったが、[[橋本忍]]だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。伊丹の助監督から後年名を成した監督としては[[市川崑]]がいる。 |
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[[1961年]](昭和36年)[[11月15日]]、[[筑摩書房]]より『伊丹万作全集』全3巻が[[志賀直哉]]、伊藤大輔、[[北川冬彦]]、[[中野重治]]の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に『花火』『天下太平記』『國士無双』『[[闇討渡世]]』『[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]』『赤西蠣太』『無法松の一生』『不惜身命』『手をつなぐ子等』の脚本が収録されている。 |
[[1961年]](昭和36年)[[11月15日]]、[[筑摩書房]]より『伊丹万作全集』全3巻が[[志賀直哉]]、伊藤大輔、[[北川冬彦]]、[[中野重治]]の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に『花火』『天下太平記』『國士無双』『[[闇討渡世]]』『[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]』『赤西蠣太』『無法松の一生』『不惜身命』『手をつなぐ子等』の脚本が収録されている。 |
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[[1997年]](平成9年)[[12月20日]]、長男の十三が満64歳で亡くなり、[[2004年]](平成16年)[[7月1日]]には妻のキミが満100歳で死去した<ref>[http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070601001061.html 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻]、[[共同通信]]、2013年1月13日閲覧</ref>。 |
[[1997年]](平成9年)[[12月20日]]、長男の十三が満64歳で亡くなり、[[2004年]](平成16年)[[7月1日]]には妻のキミが満100歳で死去した<ref>[https://web.archive.org/web/20140528005904/http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070601001061.html 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻]、[[共同通信]]、2013年1月13日閲覧</ref>。 |
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[[2010年]](平成22年)6月に、[[ちくま学芸文庫]]から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。 |
[[2010年]](平成22年)6月に、[[ちくま学芸文庫]]から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。 |
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*影画雑記(1937年、第一文芸出版社) |
*影画雑記(1937年、第一文芸出版社) |
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*静臥雑記(1943年、[[国際情報社]]出版部) |
*静臥雑記(1943年、[[国際情報社]]出版部) |
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*静臥後記(1946年、大雅堂) |
*静臥後記(1946年、[[大雅堂]]) |
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*伊丹万作全集 全3巻(1961年、[[筑摩書房]]) |
*伊丹万作全集 全3巻(1961年、[[筑摩書房]]) |
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*伊丹万作エッセイ集(1971年、摩叢書) - [[大江健三郎]]編 |
*伊丹万作エッセイ集(1971年、摩叢書) - [[大江健三郎]]編 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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|author = 伊丹万作 |
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|title = 私の活動写真傍観史 |
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== 外部リンク == |
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[[Category:1900年生]] |
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2024年10月20日 (日) 15:25時点における最新版
いたみ まんさく 伊丹 万作 | |||||
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本名 | 池内 義豊 (いけうち よしとよ) | ||||
別名義 |
水田 豊平 (みずた とよへい) 池内 愚美 (いけうち ぐみ) 青山 七造 (あおやま しちぞう) | ||||
生年月日 | 1900年1月2日 | ||||
没年月日 | 1946年9月21日(46歳没) | ||||
出生地 | 日本・愛媛県松山市湊町2丁目 | ||||
死没地 | 日本・京都府京都市上京区 | ||||
職業 | 脚本家、映画監督、俳優、エッセイスト、挿絵画家 | ||||
ジャンル | 映画、挿絵、随筆 | ||||
活動期間 | 1918年 - 1946年 | ||||
活動内容 |
1918年:挿絵画家としてデビュー 1927年:伊藤大輔のもとで脚本を執筆 1928年:片岡千恵蔵プロダクションに入社、監督デビュー 1934年:新興キネマに移籍 1937年:東宝映画に移籍 | ||||
配偶者 | 池内キミ(1904年 - 2004年) | ||||
著名な家族 |
長男:伊丹十三 内孫:池内万作 内孫:池内万平 長女:大江ゆかり 女婿:大江健三郎 外孫:大江光 | ||||
主な作品 | |||||
『國士無双』 / 『赤西蠣太』 / 『無法松の一生』 | |||||
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伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。
「日本のルネ・クレール[1]」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り[2]、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇[3] で稲垣浩とともに新生面を開いた[注釈 1]。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した[2]。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。長男は映画監督・俳優の伊丹十三、長女は大江健三郎夫人の大江ゆかり、孫は作曲家の大江光、俳優の池内万作、池内万平。
来歴・人物
[編集]挿絵画家から映画界へ
[編集]1900年(明治33年)1月2日、愛媛県松山市湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる[4][5][6]。後に2人の妹が産まれた[4]。
1906年(明治39年)、松山第一尋常小学校(現在の松山市立番町小学校)に入学、この秋に神戸新開地の掛小屋で初めて活動写真を見る[4](この時に観た活動写真は、日露戦争の実写であった[4][7])。1912年(大正元年)、旧制愛媛県松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学。在学中に同窓の中村草田男、伊藤大輔、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を作り[6]、雑誌の口絵や挿絵を描いた[注釈 2]。
1917年(大正6年)3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と[6] 家庭の事情で[4] 父とともに樺太に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた[9] が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷[3]、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める鉄道院に勤務した[4]。その傍ら独学で洋画を学んだ。
翌1918年(大正7年)、鉄道院を退職し[4][6]、2月に少年向け雑誌『少年世界』でに石黒露雄の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする[10]。同月の誌上には池内都夜坊の名で『ゴリラとピンくん』という漫画も掲載している[10]。その後は本名の池内義豊の名で『少年世界』の挿絵を担当し、1919年(大正8年)には水田豊平のペンネームで『中学生』の挿絵も描いている。1920年(大正9年)からは同年刊行の『新青年』『女学生』の2誌も担当し、計4誌で挿絵を描いた。この頃から池内愚美の筆名を使っていた。
同年、映画製作の事業に乗り出した松竹が松竹キネマ俳優学校の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と本郷区根津須賀町の下宿2階3畳で同居生活を始める[7][11][注釈 3]。しかし、翌1921年(大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、谷中真島町の下宿で別々の部屋に暮らした[7]。同年5月、補充兵として広島の野砲連隊に3ヶ月間入営した[10]。
1922年(大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役[10] し、その後伊藤と青山南町で再び同居生活を始めた[11]。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優はフランク・キーナンだったという[7][12]。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという[11]。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の野田実を見舞うために松山に帰省する[10][11][注釈 4]。
1923年(大正12年)、関東大震災後に上京、長崎村に初山滋と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした[10][11][12]。1925年(大正14年)、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱樂』を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する[6]。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、1926年(大正15年)には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町におでん屋「瓢太郎」を開店する[6][注釈 5]。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、1927年(昭和2年)夏に借金を残して閉店した[7][13]。同年、知人夫妻を描いた油彩画『市河夫妻之像』が岸田劉生の目に留まり、激賞される。この絵は中村草田男によって第1回大調和美術展に搬入され入選したが、画家の道は断念している[6]。
同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった[14]。当時伊藤の食客だった人に香川良介と中川藤吉[注釈 6] がいる[7]。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『花火』と『伊達主水』[注釈 7] を執筆する[3][7][14]。11月、奈良に谷崎十郎プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした[7][14]。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った[7][14]。
映画監督へ
[編集]1928年(昭和3年)4月、台湾から帰国した万作は、5月10日に設立された片岡千恵蔵プロダクション(略称:千恵プロ)に脚本家兼助監督として入社し、同プロ第1回作品『天下太平記』で脚本を執筆する[3][7][14]。この時から伊丹万作の名を使用した(この名は伊藤大輔が命名した[1])。同年11月には『草鞋』を映画化した『仇討流転』で監督デビューする。しかし、体が弱かった万作は同年に病気療養のため松山へ移り、そこで『絵本武者修行』と『金忠輔』[注釈 8] のシナリオを執筆した。前者は自身でメガホンを取るものの、撮影開始直前に病気が再発したため稲垣浩が代わりに監督して完成された[14][15][16]。
1930年(昭和5年)、野田実の妹であるキミと松山で結婚[6][17]。この年に監督復帰し、『春風の彼方へ』『源氏小僧出現』『逃げ行く小伝次』の3作を発表。1931年(昭和6年)4月、林不忘原作の『刀傷未遂』を『元禄十三年』と改題して脚色するが、シナリオ改訂中に病臥に伏したため、本作も稲垣が代わりに監督して完成させた[18]。同年は同作の他『金的力太郎』と『花火』を監督している。
1932年(昭和7年)、伊勢野重任原作の『國士無双』を監督。本物の剣豪が贋物に敗れるという内容で、その知的で諧謔に満ちたユーモアが注目を浴びた。また、この作品は「これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ[1]」と絶賛され、キネマ旬報ベスト・テンに第6位でランクインした。続いて村松梢風原作の『人間飢饉』を脚色・監督した『闇討渡世』を発表し、風刺と諧謔の精神で平手造酒の孤独を描いたが[19]、検閲により大幅にカットされた[6]。
1933年(昭和8年)、自身初のトーキーとなる予定だった『江戸ッ子神楽』の撮影を行うが、片岡千恵蔵と意見が衝突し撮影は中止となる[20][21]。代わって佐伯清が書いたシナリオを脚色した『渡鳥木曾土産』を監督し、続いて山手樹一郎原作の『一年余日』を脚色・監督した『武道大鑑』を年またぎで製作。『武道大鑑』製作後の1934年(昭和9年)、伊藤監督の『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』で脚本と応援監督を務めたのを経て、5月に千恵プロを退社して新興キネマに移籍[6][20]。1935年(昭和10年)に移籍第1作で、自身初のトーキーとなる『忠次売出す』を発表。同年、千恵プロに出向して『戦国奇譚 気まぐれ冠者』を脚本・監督した[22][23]。
1936年(昭和11年)、千恵プロの日活提携復帰作品となった『赤西蠣太』を監督。志賀直哉の短編小説を原作に、伊達騒動を背景に醜男の武士の恋を描いたこの作品は、作者の志賀本人も大絶賛し[3]、キネマ旬報ベスト・テン第5位になるなど高い評価を受けた。伊丹にとっても『國士無双』と並ぶ代表作となった。
同年、アーノルト・ファンク監督の日独合作『新しき土』で共同監督に要請され、万作は「自分の本領はシナリオにあって、監督にはない」と主張して固辞するがきかれず[21][24]、共同監督を務めることになった。しかし、脚本執筆時からファンクとは意見が対立し、万作はファンクとは別に作品を撮り、結果、ファンク版(ドイツ版)と伊丹版(米英版)の異なるバージョンが完成した[25]。万作は「撮影には二倍の時間と労力を費やし、一年間の精力を意もなく浪費したのである[26]」と本作のことを語っており、彼の失敗作となった。
1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオで金子洋文原作の『故郷』と、岡本綺堂原作の『権三と助十』を脚色・監督。同年9月10日、J.O.スタヂオと他3社[注釈 9] の合併で東宝映画が設立され、万作は東宝映画東京撮影所に移籍する。同年、初の著作集『影画雑記』が出版される[6]。1938年(昭和13年)、『レ・ミゼラブル』を翻案した[3][24]『巨人傳』を脚本・監督するが、これが最後の監督作品となり、公開後に肺結核を患い、京都にあった伊藤大輔の邸宅を借り受けて闘病生活を送った。以降は、映画雑誌に時評やエッセイを寄稿しつつ、シナリオ執筆の日々を送ることになる[27]。
1940年(昭和15年)、東宝を退社し[6]、1941年(昭和16年)2月に日活多摩川撮影所に移籍、再起の作品として岩下俊作の『富島松五郎伝』を『いい奴』の題名でシナリオ化するが、健康が優れない理由から企画段階で見送られた[28]。
1942年(昭和17年)、戦時統合による合併で日活は大映となり、万作は大映所属となる。同年、山本有三原作の『不惜身命』を脱稿し、映画化も企画されるが、情報局の事前脚本審査で却下された[6]。1943年(昭和18年)、『いい奴』が稲垣浩によって『無法松の一生』の題名で公開される。同年、恩田木工原作の『木綿太平記』を執筆し、五所平之助監督によって映画化が予定されたが、再び情報局の事前脚本審査で却下された[6][29]。11月、山口県屋代島(周防大島)に転地療養[29]。
1944年(昭和19年)、シナリオ『手をつなぐ子等』を執筆。翌1945年(昭和20年)、遺稿『東海道膝栗毛』(依田義賢原作)を執筆し、大映の1946年(昭和21年)度の正月映画に予定されるが、連合軍総司令部民間情報教育局(CEI)の検閲により映画化不許可となった[6][30]。1946年『映画春秋』8月号に「戦争責任の問題」を発表[31]。
1946年(昭和21年)、6月頃から田中正造の生涯を描く構想を練っていたが[1]、病状が悪化し、同年9月21日午後6時30分、伊藤大輔と妻子に看取られながら、京都市上京区の自宅で死去[29]。満46歳没。辞世の句は「病臥九年更に一夏を耐へんとす」[32]。
万作は、脚本家として弟子を取らなかったが、橋本忍だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。伊丹の助監督から後年名を成した監督としては市川崑がいる。
没後
[編集]没後に映画化された作品は、『手をつなぐ子等』(1948年、稲垣浩監督)、『俺は用心棒』(1950年、同監督)[注釈 10]、『恋風五十三次』(1952年、中川信夫監督)[注釈 11] で、『不惜身命』と『木綿太平記』は映画化されることはなかった。
1961年(昭和36年)11月15日、筑摩書房より『伊丹万作全集』全3巻が志賀直哉、伊藤大輔、北川冬彦、中野重治の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に『花火』『天下太平記』『國士無双』『闇討渡世』『忠次売出す』『赤西蠣太』『無法松の一生』『不惜身命』『手をつなぐ子等』の脚本が収録されている。
1997年(平成9年)12月20日、長男の十三が満64歳で亡くなり、2004年(平成16年)7月1日には妻のキミが満100歳で死去した[33]。
2010年(平成22年)6月に、ちくま学芸文庫から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。
作品の現存状況
[編集]万作の監督作品全22本の内、現存するのは8本(うち断片2本)のみで、『新しき土』『故郷』『権三と助十』『巨人伝』は完全尺で現存しており、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』は75分尺、『赤西蠣太』は78分尺のものが現存している[34]。『國士無双』は東京国立近代美術館フィルムセンターが21分尺、マツダ映画社が8分尺の断片をそれぞれ所蔵しており、大阪芸術大学は『花火』の33秒尺の断片を発掘・所蔵している[34][35][36]。
フィルモグラフィ
[編集]監督作品
[編集]- 仇討流転(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 続万花地獄 第一篇(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本・出演
- 春風の彼方へ(1930年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 源氏小僧出現(1930年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 逃げ行く小伝次(1930年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 御存知源氏小僧(1931年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 金的力太郎(1931年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 花火(1931年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本
- 國士無双(1932年、片岡千恵蔵プロダクション)
- 闇討渡世(1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 研辰の討たれ(1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 刺青奇偶(1933年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 渡鳥木曾土産(1934年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 武道大鑑(1934年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇(1934年、日活) - 応援監督・原作・脚本
- 忠次売出す(1935年、新興キネマ) - 兼原作・脚本
- 戦国奇譚 気まぐれ冠者(1935年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・脚本・作詞
- 赤西蠣太(1936年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼脚本
- 新しき土(1937年、東和商事映画部) - 兼脚本
- 故郷(1937年、J.O.スタヂオ) - 兼脚本
- 権三と助十(1937年、J.O.スタヂオ) - 兼脚本
- 巨人傳(1938年、東宝映画) - 兼脚本
脚本作品
[編集]- 天下太平記(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作
- 放浪三昧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作・出演
- 源氏小僧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作
- 絵本武者修業(1929年、片岡千恵蔵プロダクション) - 兼原作
- 元禄十三年(1931年、片岡千恵蔵プロダクション)
- 快侠金忠輔(1931年、片岡千恵蔵プロダクション)
- 牡丹燈籠(1936年、聯合映画) - 兼原作
- 無法松の一生(1943年、大映)
- 手をつなぐ子等(1948年、大映)
- 俺は用心棒(1950年、東横映画)
- 恋風五十三次(1952年、東映)
出演作品
[編集]- 放浪三昧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 安藤兵衛 役
- 続万花地獄 第一篇(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 肉植幸安 役
- 続万花地獄 第二篇(1929年、片岡千恵蔵プロダクション) - 肉植幸安 役
著作
[編集]著述
[編集]- 時代映画の存在理由に就て(1933年)
- 私の活動写真傍観史(1936年)
- ルネ・クレール私見(1936年)
- 映画界手近の問題(1936年)
- カメラに関する覚え書(1937年)
- 人間山中貞雄(1938年)
- 映画の普及力とは(1940年)
- 演技指導論草案(1940年)
- 映画と癩の問題(1941年)
- 映画と民族性(1944年)
- 戦争中止を望む(1945年)
- 政治に関する随想(1946年)
- 戦争責任者の問題(1946年)
著作集
[編集]- 影画雑記(1937年、第一文芸出版社)
- 静臥雑記(1943年、国際情報社出版部)
- 静臥後記(1946年、大雅堂)
- 伊丹万作全集 全3巻(1961年、筑摩書房)
- 伊丹万作エッセイ集(1971年、摩叢書) - 大江健三郎編
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ これらの時代劇は「髷をつけた現代劇」と呼ばれた
- ^ 『楽天』は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという[8]
- ^ 「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。[7]」
- ^ 「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。[7]」
- ^ 「瓢太郎」は松山最初のおでん屋と言われている[7]
- ^ 『私の活動写真傍観史』では、中川は『下郎』の作者と紹介されている
- ^ 1928年(昭和3年)に稲垣浩監督が『放浪三昧』の題で映画化した
- ^ 1931年(昭和6年)に振津嵐峡監督が『快侠金忠輔』の題で映画化した
- ^ 他の3社は、ピー・シー・エル映画製作所、東宝映画配給、写真化学研究所
- ^ シナリオ原題『昔を今に』
- ^ シナリオ原題『東海道膝栗毛』
出典
[編集]- ^ a b c d 伊丹万作、KINENOTE、2015年2月3日閲覧
- ^ a b 伊丹万作、日本大百科全書、コトバンク、2015年2月3日閲覧
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- ^ 米田1985、p.295
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- ^ 春日太一、『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』、株式会社文藝春秋、2023年11月30日発行、P55。
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- ^ 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻、共同通信、2013年1月13日閲覧
- ^ a b 伊丹万作、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年2月3日閲覧
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- ^ 花火、大阪芸術大学、2015年2月3日閲覧
参考文献
[編集]- 伊丹万作『私の活動写真傍観史』青空文庫、1936年 。
- 伊丹万作『伊丹万作全集 第2巻』筑摩書房、1961年。
- 『日本映画監督全集』キネマ旬報社、1976年。
- 冨士田元彦『映画作家 伊丹万作』筑摩書房、1985年。ISBN 4480870784。
- 米田義一『伊丹万作』武蔵野書房、1985年。
- 今村昌平、新藤兼人、山田洋次、佐藤忠男、鶴見俊輔『トーキーの時代 講座日本映画3』岩波書店、1986年。ISBN 4000102532。
- 佐藤忠男『伊丹万作「演技指導論草案」精読』岩波現代文庫、2002年。ISBN 4006020481。
- 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 9784816920356。
- 倉田喜弘、藤波隆之 編『日本芸能人名事典』三省堂、1995年。ISBN 4385154473。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 伊丹万作 - 日本映画データベース
- 伊丹万作 - KINENOTE
- 伊丹万作 - allcinema
- Mansaku Itami - IMDb
- 伊丹万作:作家別作品リスト - 青空文庫