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'''ゴルダ・メイア'''('''גולדה מאיר''' ''(Goldah Me'ir)'', '''Golda Meir''', [[1898年]][[5月3日]] - [[1978年]][[12月8日]])は、[[イスラエル]]の政治家、第5代首相(在任期間[[1969年]]-[[1974年]])であり同国初の女性首相。
'''ゴルダ・メイア'''('''גולדה מאיר''' ''(Goldah Me'ir)'', '''Golda Meir''', [[1898年]][[5月3日]] - [[1978年]][[12月8日]])は、[[イスラエル]]の[[政治家]]、第5代[[イスラエルの首相|首相]](在任期間[[1969年]]-[[1974年]])であり同国初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]


== プロフィール ==
== 生涯 ==
[[ファイル:Golda working in kibbutz Merhavia1.jpg|thumb|right|250px|[[キブツ]]で働くメイア(1920年代)]]
[[ファイル:Golda working in kibbutz Merhavia1.jpg|thumb|right|250px|[[キブツ]]で働くメイア(1920年代)]]
ロシアの[[キエフ]](現在は[[ウクライナ]]領)に生まれた。当時の名はゴルダ・マボヴィッツ('''Golda Mabovitz''')という。[[1906年]]に、家族とともに[[ポグロム]]の多発する貧しいウクライナから[[アメリカ合衆国]][[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]へ移民した。
1898年、ロシアの[[キエフ]](現在は[[ウクライナ]]領)に生まれた。当時の名はゴルダ・マボヴィッツ('''Golda Mabovitz''')という。[[1906年]]に、家族とともに[[ポグロム]]の多発する貧しいウクライナから[[アメリカ合衆国]][[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]へ移民した。


ミルウォーキー州立師範学校(現[[ウィスコンシン大学ミルウォーキー校]])を卒業した後、公立学校で教師として働く。[[1915年]]に[[ポアレ・ツィヨン]] Poale Zion(Labor Zionist Organization、労働シオニスト機構)に加盟し、1917年モリス・マイアーソン('''Morris Myerson''')と結婚し、<ref>{{Cite book|author=Simon Sebag Montefiore|title=世界を変えた名演説集 その時、歴史は生まれた|date=|year=|accessdate=|publisher=清流出版株式会社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>[[1921年]]に夫とともに[[パレスチナ]]に移住。その後[[1924年]]に[[テルアビブ]]に転居し、公的機関などで勤務。
ミルウォーキー州立師範学校(現[[ウィスコンシン大学ミルウォーキー校]])を卒業した後、公立学校で教師として働く。[[1915年]]に[[ポアレ・ツィヨン]] Poale Zion(Labor Zionist Organization、労働シオニスト機構)に加盟し、1917年モリス・マイアーソン('''Morris Myerson''')と結婚し、<ref>{{Cite book|author=Simon Sebag Montefiore|title=世界を変えた名演説集 その時、歴史は生まれた|date=|year=|accessdate=|publisher=[[清流出版]]株式会社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>[[1921年]]に夫とともに[[パレスチナ]]に移住。その後[[1924年]]に[[テルアビブ]]に転居し、公的機関などで勤務。


[[1949年]]に[[クネセト]]議員に初当選。[[1951年]]に夫は死亡し、労働大臣(在任期間[[1949年]]-[[1956年]])・外務大臣(在任期間[[1956年]]-[[1966年]])を歴任。この間[[1956年]]に姓を[[ヘブライ語]]名メイア(「燃え輝く」の意)に改めた。第3代首相[[レヴィ・エシュコル]]の死去を受けて首相に就任した。
イスラエル独立後、[[1949年]]に[[クネセト]]議員に初当選。[[1951年]]に夫は死亡し、労働大臣(在任期間[[1949年]]-[[1956年]])・外務大臣(在任期間[[1956年]]-[[1966年]])を歴任。この間[[1956年]]に姓を[[ヘブライ語]]名メイア(「燃え輝く」の意)に改めた。[[1969年]]に第3代首相[[レヴィ・エシュコル]]の死去を受けて首相に就任した。


[[第四次中東戦争]]の際、ユダヤ教の最も重要な休日である[[ヨム・キプール]](贖罪日)にエジプトとシリアの連合軍はイスラエル国防軍に対して奇襲攻撃を行う情報があったにもかかわらず、十分な対策をとらなかったことが批判の対象となり、1974年に辞任。[[イツハク・ラビン]]に首相の座を譲った。1975年、イスラエル政府から[[イスラエル賞]]授与。
[[第四次中東戦争]]の際、[[ユダヤ教]]の最も重要な休日である[[ヨム・キプール]](贖罪日)に[[エジプト]][[シリア]]の連合軍は[[イスラエル国防軍]]に対して奇襲攻撃を行う情報があったにもかかわらず、十分な対策をとらなかったことが批判の対象となり、[[1974年]]に辞任。[[イツハク・ラビン]]に首相の座を譲った。[[1975年]]、イスラエル政府から[[イスラエル賞]]授与。


ゴルダ・メイアは[[エルサレム]]で死去し、エルサレムの[[ヘルツルの丘]]に葬られた。[[1984年]]に旧1万シェケル[[紙幣]]で、[[1987年]]の[[デノミネーション]]後は10[[新シェケル]]紙幣で肖像が使用されている
1978年に[[エルサレム]]で死去し、エルサレムの[[ヘルツルの丘]]に葬られた。


== 人物 ==
== 首相在任中の主な出来事 ==
1969年秋にアメリカを訪問した際、マスコミは「おばあちゃんが買い物袋を提げてやって来た」と報じた。その「買い物袋」にメイアは、[[ファントム]]戦闘機25機、[[スカイホーク]]攻撃機85機、[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]から引き出した長期経済援助を入れてイスラエルに持ち帰った<ref>『20世紀全記録 クロニック』[[小松左京]]、[[堺屋太一]]、[[立花隆]]企画委員。[[講談社]]、1987年9月21日、p1005。</ref>。
*1969年秋にアメリカを訪問した際、マスコミは「おばあちゃんが買い物袋を提げてやって来た」と報じた。その「買い物袋」にメイアは、[[F-4 (戦闘機)|ファントム戦闘機]]25機、[[A-4 (航空機)|スカイホーク攻撃機]]85機、[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]から引き出した長期経済援助を入れてイスラエルに持ち帰った<ref>『20世紀全記録 クロニック』[[小松左京]]、[[堺屋太一]]、[[立花隆]]企画委員。[[講談社]]、1987年9月21日、p1005。</ref>。
*[[ミュンヘンオリンピック事件]]の報復として行われた[[ミュンヘンオリンピック事件#神の怒り作戦|神の怒り作戦]] ([[:en:Operation Wrath of God|Operation Wrath of God]]) を承認した。

*[[1984年]]に旧1万[[シェケル]][[紙幣]]で、[[1987年]]の[[デノミネーション]]後は10[[新シェケル]]紙幣で肖像が使用されている。
[[ミュンヘンオリンピック事件]]の報復として行われた[[ミュンヘンオリンピック事件#神の怒り作戦|神の怒り作戦]] ([[:en:Operation Wrath of God]]) を承認した。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 関連資料 ==
== 関連資料 ==
{{参照方法|date=2018年4月|section=1}}
{{参照方法|date=2018年4月|section=1}}
*『ゴルダ・メイア回想録 ―運命への挑戦』 林 弘子訳 (1980年、[[評論社]]、絶版)
*『ゴルダ・メイア回想録 ―運命への挑戦』 [[林弘子]]訳 (1980年、[[評論社]]、絶版)
*[[イングリッド・バーグマン]]が演じた。遺作のTVムービー『ゴルダと呼ばれた女([[:en:A_Woman_Called_Golda|A Woman Called Golda]])』 [[1982年]]
*[[イングリッド・バーグマン]]が演じた。遺作のTVムービー『[[ゴルダと呼ばれた女]]([[:en:A_Woman_Called_Golda|A Woman Called Golda]])』 [[1982年]]
** ※没後[[エミー賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]を受賞。
** ※没後[[エミー賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]を受賞。


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[[Category:1978年没]]
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ゴルダ・メイア
גולדה מאיר
生年月日 1898年5月3日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国キエフ
没年月日 (1978-12-08) 1978年12月8日(80歳没)
死没地 イスラエルの旗 イスラエルエルサレム地区エルサレム
出身校 ミルウォーキー州立師範学校
所属政党 アラインメント
配偶者 モリス・マイアーソン

イスラエルの旗 第5代首相
内閣 ゴルダ・メイア内閣
在任期間 1969年 - 1974年
大統領 ザルマン・シャザール
エフライム・カツィール
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ゴルダ・メイアגולדה מאיר (Goldah Me'ir), Golda Meir, 1898年5月3日 - 1978年12月8日)は、イスラエル政治家、第5代首相(在任期間1969年-1974年)であり同国初の女性首相

生涯

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キブツで働くメイア(1920年代)

1898年、ロシアのキエフ(現在はウクライナ領)に生まれた。当時の名はゴルダ・マボヴィッツ(Golda Mabovitz)という。1906年に、家族とともにポグロムの多発する貧しいウクライナからアメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキーへ移民した。

ミルウォーキー州立師範学校(現ウィスコンシン大学ミルウォーキー校)を卒業した後、公立学校で教師として働く。1915年ポアレ・ツィヨン Poale Zion(Labor Zionist Organization、労働シオニスト機構)に加盟し、1917年モリス・マイアーソン(Morris Myerson)と結婚し、[1]1921年に夫とともにパレスチナに移住。その後1924年テルアビブに転居し、公的機関などで勤務。

イスラエル独立後、1949年クネセト議員に初当選。1951年に夫は死亡し、労働大臣(在任期間1949年-1956年)・外務大臣(在任期間1956年-1966年)を歴任。この間1956年に姓をヘブライ語名メイア(「燃え輝く」の意)に改めた。1969年に第3代首相レヴィ・エシュコルの死去を受けて首相に就任した。

第四次中東戦争の際、ユダヤ教の最も重要な休日であるヨム・キプール(贖罪日)にエジプトシリアの連合軍はイスラエル国防軍に対して奇襲攻撃を行う情報があったにもかかわらず、十分な対策をとらなかったことが批判の対象となり、1974年に辞任。イツハク・ラビンに首相の座を譲った。1975年、イスラエル政府からイスラエル賞授与。

1978年にエルサレムで死去し、エルサレムのヘルツルの丘に葬られた。

人物

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脚注

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  1. ^ Simon Sebag Montefiore. 世界を変えた名演説集 その時、歴史は生まれた. 清流出版株式会社 
  2. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p1005。

関連資料

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外部リンク

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