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'''第3代[[キラニン男爵]]マイケル・モリス'''(だい3だいキラニンだんしゃくマイケル・モリス、<!--The Right Honourable--><!-- ← これは敬称 -->{{lang-en-short|Michael Morris, 3rd Baron Killanin}}、[[1914年]][[7月30日]] - [[1999年]][[4月25日]])は、[[アイルランド]]人の[[ジャーナリスト]][[スポーツ]]界の重鎮として[[国際オリンピック委員会]](IOC)の第6代会長を務めた。一般には'''キラニン卿'''(マイケルきょう{{en|Lord Killanin}})として知られる。[[連合王国貴族]]。[[大英帝国勲章]]MBE(第5階位


== 生涯 ==
== 来歴 ==
キラニン卿は「[[ゴールウェイ]]の部族」を構成する14家族の一員として[[ロンドン]]で生まれた。
キラニン卿は「[[ゴールウェイ]]の部族」を構成する14家族の一員として[[ロンドン]]で生まれた。


[[イートン・カレッジ]]、[[パリ]]の[[ソルボンヌ大学]]、さらに[[ケンブリッジ大学]]モードリン・カレッジで教育を受けた。[[1927年]]に、伯父の第2代[[キラニン男爵]]マーティン・モリスから連合王国貴族としての男爵位を継承した。1930年代後半にジャーナリストとしての経歴を歩み始めたが、[[第二次世界大戦]]時には志願兵として従軍した。
[[イートン・カレッジ]]、[[パリ]]の[[ソルボンヌ大学]]、さらに[[ケンブリッジ大学]]モードリン・カレッジで教育を受けた。1927年に、伯父の第2代[[キラニン男爵]]マーティン・モリスから[[連合王国貴族]]としての[[男爵]]位を継承した。1930年代後半にジャーナリストとしての経歴を歩み始めたが、[[第二次世界大戦]]時には志願兵として従軍した。


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1950年、アイルランド・オリンピック評議会の長となり、1952年にはIOCのアイルランド代表となった。1968年には上級副会長にまで上りつめ、[[ミュンヘンオリンピック事件|テロ事件]]に見舞われた1972年の[[ミュンヘンオリンピック]]直後に[[アベリー・ブランデージ]]の後任となるIOC会長に選出された。


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在任中、オリンピック運動は困難な時期にあり、キラニン卿は1976年の[[モントリオールオリンピック]]における収支上の失敗や、1980年の[[モスクワオリンピック]]におけるボイコット問題などの対応に追われた。IOCにとってはさらに悪い決定が行われた。


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[[レークプラシッド (ニューヨーク州)|レークプラシッド]]と[[ロサンゼルス]]がそれぞれ[[レークプラシッドオリンピック (1980年)|1980年冬]][[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|1984年夏]]の開催地に選ばれたが、この両大会の選定においては対抗する候補地が全くなく、IOCは選定する立場というよりもむしろ要請する立場になってしまった。キラニン卿はモスクワオリンピック後に辞任し、後任には[[フアン・アントニオ・サマランチ]]が就いた。


キラニンの在任期間中に[[オリンピック憲章]]から「[[アマチュア]]」という単語が削除された。これはすでに事実上「プロの大会」と化していたオリンピックの現状を追認するものであり、のちのオリンピックの商業化への第一歩となった。
キラニンの在任期間中に[[オリンピック憲章]]から「[[アマチュア]]」という単語が削除された。これはすでに事実上「プロの大会」と化していたオリンピックの現状を追認するものであり、のちのオリンピックの商業化への第一歩となった。


キラニン卿は多くの企業で重役を務めた他道楽で映画産業にも首を突っ込み、生涯の友であった[[ジョン・フォード]]と共同で『[[静かなる男]]』を制作した。
キラニン卿は多くの企業で重役を務めた他道楽で[[映画産業]]にも首を突っ込み、キラニン卿の生涯の友であった[[ジョン・フォード]]と共同で『[[静かなる男]]』を制作した。


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2023年10月14日 (土) 08:21時点における最新版

第3代キラニン男爵
マイケル・モリス

Michael Morris, 3rd Baron Killanin


任期 1972年9月11日1980年8月3日

出生 (1914-07-30) 1914年7月30日
イギリスの旗 イギリスロンドン
死去 (1999-04-25) 1999年4月25日(84歳没)
アイルランドの旗 アイルランドダブリン

第3代キラニン男爵マイケル・モリス(だい3だいキラニンだんしゃくマイケル・モリス、: Michael Morris, 3rd Baron Killanin1914年7月30日 - 1999年4月25日)は、アイルランド人のジャーナリストスポーツ界の重鎮として国際オリンピック委員会(IOC)の第6代会長を務めた。一般にはキラニン卿(マイケルきょう、Lord Killanin)として知られる。連合王国貴族大英帝国勲章MBE(第5階位)。

来歴

[編集]

キラニン卿は「ゴールウェイの部族」を構成する14家族の一員としてロンドンで生まれた。

イートン・カレッジパリソルボンヌ大学、さらにケンブリッジ大学モードリン・カレッジで教育を受けた。1927年に、伯父の第2代キラニン男爵マーティン・モリスから連合王国貴族としての男爵位を継承した。1930年代後半にジャーナリストとしての経歴を歩み始めたが、第二次世界大戦時には志願兵として従軍した。

1950年、アイルランド・オリンピック評議会の長となり、1952年にはIOCのアイルランド代表となった。1968年には上級副会長にまで上りつめ、テロ事件に見舞われた1972年のミュンヘンオリンピック直後にアベリー・ブランデージの後任となるIOC会長に選出された。

在任中、オリンピック運動は困難な時期にあり、キラニン卿は1976年のモントリオールオリンピックにおける収支上の失敗や、1980年のモスクワオリンピックにおけるボイコット問題などの対応に追われた。IOCにとってはさらに悪い決定が行われた。

レークプラシッドロサンゼルスがそれぞれ1980年冬1984年夏の開催地に選ばれたが、この両大会の選定においては対抗する候補地が全くなく、IOCは選定する立場というよりもむしろ要請する立場になってしまった。キラニン卿はモスクワオリンピック後に辞任し、後任にはフアン・アントニオ・サマランチが就いた。

キラニン卿の在任期間中にオリンピック憲章から「アマチュア」という単語が削除された。これはすでに事実上「プロの大会」と化していたオリンピックの現状を追認するものであり、のちのオリンピックの商業化への第一歩となった。

キラニン卿は多くの企業で重役を務めた他に道楽で映画産業にも首を突っ込み、キラニン卿の生涯の友であったジョン・フォードと共同で『静かなる男』を制作した。

1999年ダブリンの自宅で死去。84歳没。ゴールウェイ県スピダールでの葬儀の後、キラニン卿の遺体はゴールウェイの墓地にある一族の納骨堂に安置された。

イギリスの爵位
先代
マーティン・モリス (en)
キラニン男爵
第3代:1927 - 1999
次代
レドモンド・モリス (en)
その他の役職
先代
アメリカ合衆国の旗 アベリー・ブランデージ
オリンピックの旗 国際オリンピック委員会会長
第6代:1972 - 1980
次代
スペインの旗 フアン・アントニオ・サマランチ