西川屋チェン
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 名古屋市中区品川町1-60[1][4][5] |
設立 | 1963年(昭和38年)2月21日[1][2] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | スーパーマーケット業など |
代表者 | 西川義雄[4][5] |
資本金 |
1億500万円[1][4] ↓ 1億7500万円[5] |
売上高 |
200億円[4] ↓ 350億円[5] |
従業員数 |
社員1,875名 (1969年(昭和44年)12月1日時点)[2] |
決算期 | 2月[1][2] |
主要株主 | 西川義雄[1][2]、西川俊男[1][2]、西川長十[1][2]、安井治雄[2] |
特記事項:法人格としては、当社は1971年(昭和46年)2月21日に株式会社 ほていやに吸収合併されて消滅[6]。同社が株式会社ユニー(2代目)となった[6]。 |
株式会社 西川屋チェンは、中部でスーパーマーケットなどを店舗展開していた株式会社である。
1969年(昭和44年)8月にタキヒョーや株式会社 ほていやと共同仕入れ会社の株式会社ユニー(初代)設立し[7]、1971年(昭和46年)2月21日に経営統合した[8]。 この経営統合時に、当社の店舗営業部門は株式会社ユニーから「株式会社 西川屋ストア」へ譲渡され、株式会社東海ユニーとなった[9]。
概要
[編集]1912年(大正元年)に愛知郡下之一色村(現:名古屋市中川区下之一色)で西川長十が[10]、「西川屋」として[11]履物店を開いたのが始まりである[10]。 1928年(昭和3年)に名古屋市港区築三町へ移転して呉服店を開業した[10]。 1930年(昭和5年)に支店を隣の公設市場に開設して洋品雑貨部とし、品揃えを広げた[12]。
戦時中は昭和18年に企業整備令によって事業を休止したが[12]、1947年(昭和22年)に名古屋市港区中川町の[10]名港店のところに木造2階建て売場面積6坪の店舗を開設し[12]、中古衣料や真綿などの販売で営業を再開した[12]。
1949年(昭和24年)12月に「株式会社西川屋」を設立して法人化した[9]。
1953年(昭和28年)から「廉価販売」に取り組み、1956年(昭和31年)からは「広い売場で楽しい買物」を掲げて店舗の拡張などを進めた[12]。
1959年(昭和34年)9月には伊勢湾台風で被災して大きな損失を出したが、同年から掲げた経営方針の「ワンストップショッピング化」を軸にした積極策で大型小売店チェーン展開の基盤を作った[12]。
1963年(昭和38年)2月21日に資本金2500万円で「株式会社 西川屋チェン」を設立[13]。
1966年(昭和41年)3月18日に本部・配送センターを完成させ[14]、同年2月25日に土岐店を開設し[15]、愛知県外へ進出した[10]。
1969年(昭和44年)4月に丸紅飯田と業務提携[16]。 同年8月にはタキヒョーやほていやと共同仕入れ会社の株式会社ユニー(初代)を設立し[7]、同年9月には仕入れと支払業務を同社に移管した[17]。
1970年(昭和45年)2月に銀杏屋とマルサンを経営統合した[13][18]。 また、同月にはタキヒョーやほていやと共に株式会社ユニー(初代)に仕入れ業務を一本化した[19]。
1971年(昭和46年)2月21日に株式会社ユニー(初代)や「新名浜株式会社」と共に株式会社 ほていやに吸収合併され、同社が株式会社ユニー(2代目)となる形で経営統合した[8]。 この経営統合時に、「株式会社 西川屋ストア」が「株式会社 東海ユニー」へ社名変更し、当社の店舗の営業を継承した[9]。
この経営統合後、仕入れも本部も資本面も、西川屋系とほていや系は別になっており、「株式会社 東海ユニー」は実質的に西川屋系として営業を続け、経営統合後の成長率などの業績面ではほていや系を上回った[8]。
その為、上場による更なる発展を目指して完全に統合することとし[20]、1975年(昭和50年)2月21日に株式会社ユニー(2代目)が「株式会社 東海ユニー」のほか「株式会社 中部ユニー」と「株式会社 関東ユニー」を吸収合併した[6]。
その後、1976年(昭和51年)8月21日に株式会社ユニー(2代目)が「株式会社西川屋」と「犬山食品株式会社」のほか「名浜株式会社」と「株式会社松喜屋」を吸収合併し[6]、「西川屋」としての歴史に終止符を打った。
年表
[編集]- 1912年(大正元年) - 愛知郡下之一色村(現:名古屋市中川区下之一色)で西川長十が、履物店を開業[10]。
- 1920年(大正9年)10月 - 四日市市八幡町で山本半六が「銀杏屋」として履物商を開業[21]。
- 1928年(昭和3年) - 名古屋市港区築三町へ移転して呉服店を開業[10]。
- 1930年(昭和5年) - 支店の洋品雑貨部を隣の公設市場に開設[12]。
- 1947年(昭和22年) - 名古屋市港区中川町に店舗を開設して、営業を再開[10]。
- 1948年(昭和23年) - 「株式会社銀杏屋」を設立[21]。
- 1949年(昭和24年)12月 - 「株式会社西川屋」を設立[9]。
- 1952年(昭和27年)5月 - 「犬山食品株式会社」を設立[9]。
- 1963年(昭和38年)
- 1966年(昭和41年)
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)2月21日 - 「株式会社ユニー(初代)や」「新名浜株式会社」と共に「株式会社 株式会社 ほていや」に吸収合併され、同社が「株式会社ユニー(2代目)」となる[9]。「株式会社 西川屋ストア」が「株式会社 東海ユニー」へ社名変更し、当社の店舗の営業を継承[9]。
- 1975年(昭和50年)2月21日 - 「株式会社ユニー(2代目)」が「株式会社 東海ユニー」のほか「株式会社 中部ユニー」と「株式会社 関東ユニー」を吸収合併[6]。
- 1976年(昭和51年)8月21日 - 「株式会社ユニー(2代目)」が「株式会社西川屋」と「犬山食品株式会社」のほか「名浜株式会社」と「株式会社松喜屋」を吸収合併[6]。
かつて存在した店舗
[編集]愛知県
[編集]名古屋市
[編集]港区
[編集]- 売場面積6坪[12] → 1,500m2[23] → 3,000m2[25]。
- 取扱商品:食料品・衣料品・雑貨[23][25]。
- 1964年(昭和39年)11月に増築して地下1階・地上3階建ての売場面積3,000m2として新装開店した[26]。
- 名港東店(名古屋市港区、1951年(昭和26年)開店[10])
- 取扱商品:紳士洋品・洋服[27]
- 名港西店(名古屋市港区、1955年(昭和30年)開店[10])
- 鉄筋コンクリート3階建て[27]。
熱田区
[編集]中村区
[編集]東区
[編集]北区
[編集]- 売場面積950m2[33] → 1,500m2[29]。
- 取扱商品:食料品・衣料品・雑貨[32][29]。
- 鉄筋コンクリート2階建て[27]。
- 1階が衣料品主体で化粧品売り場を併設し、2階は衣料品売り場の他、完全にセルフサービス方式となった食品雑貨売り場とカフェテリアという売り場構成だった[33]。
西区
[編集]
中川区
[編集]南区
[編集]- 敷地面積約3,630m2[39]、鉄筋コンクリート造地下1階地上6階建て一部7階建て[40][39]、延べ床面積約11,840m2[39]、店舗面積7,493.62m2[39](直営店舗面積約5,750m2[39])、駐車台数約100台[39]。
- 敷地面積約5,280m2[41]、鉄筋コンクリート造地下1階地上4階建て[41]、延べ床面積約20,300m2[41]、売場面積約7,901m2[41](直営店舗面積約6,930m2[41])、駐車台数約100台[41]。
- 開店時のテナント数39店で[42]、4階はボウリング場を併設していた[41]。
- デベロッパーは丸紅飯田[43]。
尾張(名古屋市以外)地区
[編集]- 売場面積1,100m2[32] → 2,300m2[29]。
- 取扱商品:食料品・衣料品・雑貨[32][29]。
- 主婦の店犬山店を買収して出店した[12]。
- 跡地は、名鉄犬山駅西側で犬山市が買収[44]。
- 敷地面積約6,000m2[45]、鉄筋コンクリート造地下1階地上4階建て一部6階建て[45]、延べ床面積約21,300m2[45]、売場面積約13,303.63m2[45](直営店舗面積約10,000m2[45])、駐車台数約200台[45]。
- 映画館半田松竹跡に出店。開店時には鉄骨造り地上2階建ての建物で赤と白に外壁が塗り分けられていた[47]。
- オープン時に地元商店街の反発をかわすため、地元商店から36店舗が入居する専門店街を併設した[48]。
- 売場面積1,500m2[23] → 3,500m2[25]。
- 取扱商品:食料品・衣料品・雑貨[23][25]。
- 敷地面積約8,250m2[51]、鉄筋コンクリート造地下1階地上4階一部5階建て[51]、延べ床面積12,318.03m2[52]、売場面積約7,188m2[51](直営店舗面積約5,100m2[51])、駐車台数約200台[51]。
- 丸紅飯田と提携して開設したショッピングセンターだった[43]。
三河地区
[編集]刈谷市
[編集]- 延べ床面積21,500m2[58]。
- 1969年(昭和44年)10月25日に[57]ニシカ·ハウジングセンターのA館とファッションセンターのB館が先行して開業し[59]、32レーンのボウリング場や飲食店の入るレジャーセンターのC館は同年11月29日に開業した[59]。
- 刈谷ハイライフ・アベニューB館[59]。
- 刈谷ハイライフ・アベニューC館[59]。
刈谷市以外
[編集]岐阜県
[編集]- (2代目)瑞浪店(瑞浪市寺河戸町1188-5[30])
- 敷地面積約1,680m2[63]、鉄筋コンクリート造地下1階地上4階一部5階建て[63]、延べ床面積約8,500m2[63]、売場面積約5,204.25m2[63](直営店舗面積約4,800m2[63])。
- 株式会社新町ビルの建物に出店していた[63]。
三重県
[編集]
長野県
[編集]過去に存在した関連会社
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『ダイヤモンド会社要覧 非上場会社版 1970年版』 ダイヤモンド社、1970年。pp667
- ^ a b c d e f g h 『事業と人 1970年版』 中部経済新聞社、1970年。pp323
- ^ 『企業への招待 1968年版』 日本リクルートセンター、1968年。pp921
- ^ a b c d 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp669
- ^ a b c d “ほていや・西川屋チェン・ユニー=新会社名「ユニー」で年内合併”. 新日本経済 1970年3月号 (新日本経済社) (1970年3月1日).pp9
- ^ a b c d e f “新規上場企業紹介 ユニー株式会社”. 証券 1977年11月号 (東京証券取引所総務部) (1977年11月).pp68
- ^ a b c 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp10
- ^ a b c “問題かかえたユニーの大合併 上場控え名実ともに必要な一本化”. 中部財界 1975年2月号 (中部財界社) (1975年2月).pp9
- ^ a b c d e f g h “新規上場企業紹介 ユニー株式会社”. 証券 1977年11月号 (東京証券取引所総務部) (1977年11月).pp70
- ^ a b c d e f g h i j k 『企業への招待 1968年版』 日本リクルートセンター、1968年。pp922
- ^ 『日本小売業経営史』 公開経営指導協会、1967年5月20日。pp571
- ^ a b c d e f g h i j k 大橋隆士 “〈チェーン問題〉西川屋チェーン”. 販売革新 1964年3月号 (アール・アイ・シー) (1964年3月).pp122-125
- ^ a b c d e 『会社総鑑 1970年版』 日本経済新聞社、1970年。pp1135
- ^ a b 『商業界二十年 : 日本商業20年譜 1948-1967』 商業界、1967年10月17日。pp212
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp328
- ^ a b 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表』 長崎県立国際経済大学論集 23号(別冊) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1990年3月)。pp42
- ^ “中京短信 ほていや・西川屋チェン・ユニー 新会社名「ユニー」で年内合併”. 新日本経済 1970年3月号 (新日本経済社) (1970年3月1日).pp41
- ^ a b 建野堅誠 『日本ス-パ-発達史年表-3-』 長崎県立国際経済大学論集 18号(3-4) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1985年3月)。pp142
- ^ a b 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表』 長崎県立国際経済大学論集 23号(別冊) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1990年3月)。pp47
- ^ “問題かかえたユニーの大合併 上場控え名実ともに必要な一本化”. 中部財界 1975年2月号 (中部財界社) (1975年2月).pp10
- ^ a b 『繊維小売年鑑 1965年版』 繊維小売年鑑刊行会、1964年。pp692
- ^ 『全国繊維企業要覧 昭和43年版』 信用交換所大阪本社、1967年9月15日。pp1640
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本スーパーマーケット名鑑 1964年版』 商業界、1964年。pp181
- ^ 『日本繊維商社銘鑑 1970年版』 東京信用交換所、1969年10月1日。pp1348
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp363
- ^ “小売商業の構造変化と零細小売商Ⅰ スーパーマーケットとの関連を中心に 3.名古屋市”. 国民金融公庫調査月報 1968年1月号 (国民金融公庫) (1968年1月20日).pp64
- ^ a b c 『繊維小売年鑑 1965年版』 繊維小売年鑑刊行会、1964年。pp687-688
- ^ a b c d e f 『日本スーパーマーケット名鑑 1964年版』 商業界、1964年。pp174
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp362
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本職員録 第13版 中』 人事興信所、1970年。ppに20
- ^ 『繊維小売年鑑 1964年版』 繊維小売年鑑刊行会、1963年。pp181
- ^ a b c d e f g 『日本スーパーマーケット名鑑 1964年版』 商業界、1964年。pp180
- ^ a b c 『スーパーマーケット・レイアウト集 1964年版』 商業界、1964年。pp142-143
- ^ a b c d e f g h 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp361
- ^ 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp260
- ^ a b c d e f 『日本商業年鑑 1972年版』 商業界、1972年。pp581
- ^ 『日本のショッピングセンター その全容と今後の方向 1970年版』 日本繊維経済研究所、1970年2月20日。pp226
- ^ a b “開店ニュース”. 販売革新 1970年5月号 (アール・アイ・シー) (1970年5月).pp192
- ^ a b c d e f g h 『日本のショッピングセンター ショッピングセンターの現状分析 1971年版』 日本繊維経済研究所、1971年1月10日。pp242
- ^ a b 『日本商業年鑑 1972年版』 商業界、1972年。pp580
- ^ a b c d e f g h 『日本のショッピングセンター ショッピングセンターの現状分析 1971年版』 日本繊維経済研究所、1971年1月10日。pp232
- ^ a b 『日本商業年鑑 1972年版』 商業界、1972年。pp578
- ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp18
- ^ “ユニー犬山店跡地を犬山市が買収”. タイハン特報 (大量販売新聞社). (2000年3月16日)
- ^ a b c d e f g 『日本のショッピングセンター ショッピングセンターの現状分析 1971年版』 日本繊維経済研究所、1971年1月10日。pp247
- ^ 榎戸俊介 “スーパーマーケット地図〈愛知県の巻〉”. 販売革新 1963年10月号 (アール・アイ・シー) (1963年10月).pp103-107
- ^ 吉田貞雄 『新生 (ユニー) の時代対応戦略 複合小売業の "森" をつくる』 ダイヤモンド社、1988年3月1日。ISBN 978-4478310427 .pp83
- ^ 花村芳樹. “地方商業の現状と課題-1-半田市の場合”. 愛知大学法経論集 経済編 第65号 (愛知大学法経学会) (1971年2月)
- ^ 井関純 『商店の大型化と大型店経営』 誠文堂新光社、1963年8月31日。pp286-287
- ^ “その8 ユニー大田川ショッピングセンター(部門リニューアル)”. ショッピングセンター 1982年7月号 (日本ショッピングセンター協会) (1982年7月1日).pp56
- ^ a b c d e 『日本のショッピングセンター ショッピングセンターの現状分析 1971年版』 日本繊維経済研究所、1971年1月10日。pp237
- ^ 『火災の実態から見た危険性の分析と評価 特異火災事例112 2訂版』 全国加除法令出版、1983年4月。pp459
- ^ a b 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp83
- ^ a b 大府市誌編さん刊行委員会『大府市誌』 大府市、1986年3月。pp745
- ^ 『日本会社録 第5版』 交詢社出版局、1967年。ppに121
- ^ “本格的ショッピングセンター時代の幕明け わが国ショッピングセンターの現状をみる”. 商業界 1970年7月号 (商業界) (1970年7月).pp189-200
- ^ a b c d 高篠薫一郎“チャレンジ型S・Cの出現〈刈谷ハイライフ・アベニュ〉”. 商店界 1970年2月号 (誠文堂新光社) (1970年2月).pp218-223
- ^ 丸木格 “SC〔Shopping Center〕の現状と成長路線”. 化繊月報 1970年4月号 (繊維総合研究所資料頒布会) (1970年4月).pp39
- ^ a b c d e f “レジャーとハウジングを主力にしたショッピングセンター 西川屋刈谷店をみる”. 販売革新 1969年11月号 (アール・アイ・シー) (1969年11月).pp63-65
- ^ 「ハイライト 戦国時代に突入する名古屋流通業界」『新日本経済』1969年8月号 (新日本経済社) (1969年8月1日)、p.65
- ^ “17億8千万円で結着した 豊橋サンマート問題の"第一ラウンド"”. 中部財界 1981年9月号 (中部財界社) (1981年9月).pp86
- ^ 『日本のショッピングセンター ショッピングセンターの現状分析 1971年版』 日本繊維経済研究所、1971年1月10日。pp266-268
- ^ a b c d e f g h 『日本のショッピングセンター ショッピングセンターの現状分析 1971年版』 日本繊維経済研究所、1971年1月10日。pp304
- ^ 『日本商業年鑑 1972年版』 商業界、1972年。pp574
- ^ a b c d e f 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp379
- ^ a b c d e 『日本スーパーマーケット名鑑 1964年版』 商業界、1964年。pp185
- ^ 『伊勢年鑑 昭和46年版』 伊勢新聞社、1970年11月6日。pp457
- ^ a b c d e f g h 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp318
- ^ a b 『帝国銀行・会社要録 第50版』 帝国興信所、1969年。pp愛知55
- ^ “展望台”. 食品と科学 1969年12月号 (食品と科学社) (1969年12月).pp36-47
- ^ “(4)西川屋が家具と食堂部門へ進出”. 販売革新 1969年5月号 (アール・アイ・シー) (1969年5月).pp156