※本記事は環境、気候変動に関するニュースを解説する非営利メディア『Grist』に当初掲載されたもので、「Climate Desk」とのコラボレーションの一部である。
2016年秋、気温の上昇によりノルウェーの山脈を覆う永久凍土が溶け始めた。洪水が発生し、世界の種子を守る要塞として山中に建設された「スヴァールバル世界種子貯蔵庫」につながるトンネルに水が流れ込んだ。この浸水は恐ろしい警告として受け止められた。世界の食糧供給を守るために何百万ドルもかけてつくられた「終末の日」のための貯蔵庫でさえ、温暖化を続ける地球の怒りから逃れられないのだ。
人類が、気候に関連する主要な数値を超え続ける限り、貯蔵庫の寿命を脅かす安全リスクも高まり続ける。いざというときのために130万種以上の種子を貯蔵している同施設は、08年に北極圏に位置する群島に建設されたのだが、のちになって、そこでは世界平均の6倍のペースで温暖化が進んでいることが明らかになった。そうした背景があるなか、米国の研究チームが『BioScience』誌で発表した論文を通じて、壮大な構想を明らかにした。新たな貯蔵庫をつくり、今回は種子だけでなく、植物も、動物も、微生物も保管する。
その建設候補地は「月」だ。
「さまざまな自然史博物館で、われわれはどの素材を保管すべきか、どこに保管すべきか、どう保管すべきかと考えています」。同論文の共著者のひとりで、スミソニアン国立自然史博物館で働くリン・パレンティが語った。気候の温暖化と生息地の減少のあおりを受けて絶滅の危機に瀕している生物種の数が増え続けているいま、それらの生存を確保する最善の方法を改めて考えるときが来たと、彼女は感じている。スヴァールバルに加えて、全世界には1,750を超える遺伝子バンクが存在し、将来、復活しなければならなくなったときのために、動植物種のサンプルを保存している。しかし、そうした貯蔵庫は保険としてもはや適切ではないと、パレンティは主張する。
「理想は月。月は遠く離れていて、地球上の大惨事から守られています」。パレンティはさらに続けた。「もし実現できれば、きっとうまくいくでしょう」
提案された月面生物貯蔵庫は、人間によるメンテナンス不要の全自動施設で、冷凍保存された細胞を生物活性が停止するほどの低温で保存する。冷凍保存された細胞は数百年存続できると考えられている。目的は、後日、解凍することでDNAのみならず生物そのものを復活させることにある。この考えの正しさは、擬似的なかたちではあるが、すでに証明されている。研究チームは以前、ホシハゼ属の魚の皮膚から採取した生きた細胞を凍結した。のちにその皮膚細胞から個体群を再生することが目的だった。
「わたしは、種子の管理に人間の力もエネルギーも用いないスヴァールバル世界種子貯蔵庫のような受動的な生物貯蔵庫で生物種を保護する方法をずっと考えてきました」。パレンティの同僚としてスミソニアン博物館で働き、同論文の筆頭著者でもあるマリー・ハーゲドルンが語る。地球上には、凍結された生物細胞の長期保存の前提条件となるマイナス196℃以下の温度を維持できる場所は存在しない。そこで、彼女と研究チームは月に目を向けたのである。月にはその温度をはるかに下回る領域が存在するからだ。
生物多様性を保存する
同論文の執筆陣は、もし月面貯蔵庫が実現すれば、地球上で大惨事が起きた場合に備えて、世界の生態系の生物多様性を保存できると主張する。
まるでSF小説のような話で、実行するには想像を絶する困難を乗り越えなければならない。地球の再生を可能とするために、どれほど多様な生物遺伝子を確保する必要があるのか定かではないし、長期間冷凍保存された細胞から種を再生することが可能であることを示す証拠もまだ十分に集まっていない。また、計画を実行に移すには莫大な予算が必要になる(現在のところ、ハーゲドルンのチームは費用やスケジュールの予想を立てている)。
しかし今夏、チームは構想の実現に向けて一歩前進した。ハーバード・スミソニアン天体物理学センターからギャレット・フィッツパトリックをはじめとしたエンジニアたちを迎え入れて、チームを拡大したのだ。かつて、フィッツパトリックはNASAの一員として、実験用の生物サンプルをISS(国際宇宙ステーション)へ輸送するシステムのデザインに携わった。だが、凍結されて活性を失った生体組織を月に送り出すことは、似てはいるが、NASAでの任務よりもはるかに難しい。
フィッツパトリックのチームはひとまず実験として、凍結細胞をISSへ送り届けるミッションの開発に取りかかった。フィッツパトリックによると、特に次の問いに答えを見つけることが目的となる。「着陸地点だけでなく、打ち上げロケットへの積み込み、月への輸送、着陸、保存、そして最終目的地への到着にいたるまで、ミッションの全段階において適切な温度範囲を維持できるのか?」
フィッツパトリックは、凍結サンプルを宇宙へ送り出すことと、月面で保存することは、「エンジニアリング的に見て、まったく異なるふたつの課題」だと言う。
月の南極地点に貯蔵施設を建設
地球の生物の細胞を冷凍保存して月で保存するというのは、ニッチな問題ではある。しかし驚くべきことに、すでに競合ライバルが存在し、この課題に取り組んでいる。しかも、ライバルのほうが2、3歩進んでいる。
アリゾナ大学のエンジニアチームが月面で生物サンプルを保存するシステムを考案した。同大学での構想のきっかけとなったのは、航空宇宙学教授のジェカン・サンガのSpaceTRExラボで行なわれた学生プロジェクトだった。このプロジェクトでは、2010年代初頭に月面で発見された溶岩洞の潜在的な利用法を検討した。溶岩洞は、ハーゲドルンたちの提案する「生物貯蔵庫」あるいはサンガのチームが呼ぶ「ルナ・アーク(月の箱船)」などとして、月面における人類の生存にとって極めて重要なシェルターとなる可能性がある。
流出するマグマの外層が冷えて固まり、内側が流れ続けることで、最終的に空洞ができあがる。そうした溶岩洞は地球のいたるところで発見されていて、地球以外でも火山活動を経験した天体の表面下にも存在すると考えられている。月もそれに含まれる。天体学者によると、月を訪れる宇宙飛行士にとって、月面上は数々の脅威が存在するが、地下の火山活動の名残である溶岩洞が、そうした脅威に対する天然の防護壁になる。宇宙飛行士自身とその装備のシェルターとなるだけでなく、宇宙飛行士が守るべきサンプルも、太陽や深宇宙から届く放射線、60,000kmに迫る時速で不規則に衝突する隕石などから保護してくれる。
サンガのチームが考案したシステムでは、ソーラーパネルとバッテリーを用いて電力を供給し、ルナ・アークに必要な低温にまで溶岩洞内の気温を下げる。この点こそが、サンガらのデザインとハーゲドルンらの構想のあいだにある決定的な違いだ。サンガのチームはルナ・アークを能動的に冷やすつもりだが、ハーゲドルンを中心としたスミソニアンチームは月の自然を利用してサンプルを冷凍し続ける貯蔵庫を想定している。
「われわれの提案の肝は、極端な話、一度つくってしまえば、あとは何もしなくていいという点にあります」とパレンティは言う。そして、これまでも月面に貯蔵施設をつくるというアイデアは存在したが、どれもそれを管理する人員を必要としていたと指摘する。
極低温における凍結状態を永続的かつ受動的に維持するために、チームは月の南極地点に貯蔵施設を建設することを提案する。月の南極は天体的な意味での偶然が重なって、絶えることなく影が広がっているため、気温がマイナス196℃まで下がるのである。つまり、人がいなくても、探査機やロボットさえあれば、サンプルの貯蔵が可能なのだ。
理論上、この「永久影」は今回のプロジェクトにとって最適な候補地となるが、その一方では、サンガが指摘するように「この場所については基本的なことすらまだわかっていない」のも事実だ。先月、NASAは月の南極の初調査のために探査機を送り出す計画を、技術的な困難を理由に中止した。「皮肉なことに」サンガは語る。「そこは地球に近いのに、おそらく太陽系全体のなかで、最も過酷な場所のひとつなのです」
しかしフィッツパトリックは、NASAの展開する月探査ロードマップのおかげで、暗い南極領域の調査と理解の機会は十分に得られると確信している。今年の終わりにも、南極の影を見下ろす尾根に探査機が着陸する予定だ。だが、NASAがこの領域を調査したところで、月の南極の寒さのなかで活動し、生き残るのは、これまで想定されていたよりもはるかに難しいとわかるだけかもしれないと、サンガは指摘する。
「極低温環境での活動は、まったくもって簡単なことではありません」とサンガは言う。「機械は異常な働きを見せるでしょう。宇宙空間での場合と同じように、凍りつくかもしれません。真空環境下のそこまで温度の低くない状況でさえ、冷間圧接と呼ばれる現象が生じるのです」。接触するふたつの金属が融合する現象のことだ。
そこで、サンガはより賢明な方法として、溶岩洞の内部にルナ・アークをつくることを提案している。惑星の研究をしている科学者たちは、月の溶岩洞は地球のそれと非常によく似ているが、気温ははるかに低いと予想して、その予想にのっとって、エンジニアや研究者はそこで何が可能で、どう計画すべきかを検討している。
ただし、ハーゲドルンの構想と同じで、サンガのチームもまた、予算やスケジュールについては今後詰めることになる。一方サンガの予想では、(何年かかるかわからないが)設計さえ終了すれば、実物の完成までの時間と費用は、ISSの建造に必要だったものよりも少なく済むだろう。
気候変動が貯蔵庫にもたらすリスク
そうは言っても、最終的には何十億ドルもの費用がかかるに違いない。それだけの現金があるなら、地球上でもっと確実なソリューションに費やすべきだという声も出てくると予想される。スヴァールバル世界種子貯蔵庫では、16年の浸水でサンプルは被害を受けなかったものの、施設の保護能力に対する信念は揺らぎ始めた。施設の設計者も、オリジナルの設計段階では、永久凍土の融解や異常気象の発生などといった可能性が考慮されていなかったと認めている。浸水事故以来、予防措置に数百万ドルを費やした。
19年、同貯蔵庫では、トンネル壁の防水加工、熱源の排除、水の侵入を防ぐ排水設備の設置が施された。ノエルウェー政府およびノルディック遺伝資源センターとともに貯蔵庫の管理にあたるクロップ・トラスト(Crop Trust)のスポークスパーソンは、貯蔵庫は「安全」であると述べた。「同施設はアクセスしやすい場所にあり、最先端の冷却システムで種子の貯蔵に最適なマイナス18℃を維持しています。毎年複数回、種子の預け入れが行なわれ、寄託者は必要に応じて自分の種子を取り出すこともできます。種子貯蔵庫とその貯蔵物を守るため、厳密な監視が行なわれています」。スポークスパーソンは説明した。
「世界的な作物の多様性や食の安全など、気候変動がさまざまな側面を脅かしています。これらは、気候変動がスヴァールバル世界種子貯蔵庫にもたらすリスクよりもはるかに大きな脅威となっています」とも付け加えた。
別の機会に、ノルウェーの種子貯蔵庫が異常気象のリスクにさらされていることなどを理由に、新たに月面生物貯蔵施設というアイデアが提案されている事実について意見を求めたところ、クロップ・トラストの取締役であるシュテファン・シュミッツは、月面生物貯蔵施設という考え方こそが、地球上の作物の多様性を保存し、利用可能とすることの重要性を浮き彫りにしていると指摘した。「われわれが現在用いているシステム、学んできた教訓、そして守ってきた種子こそが、月や星に目を向ける人類にとってかけがえのない資源です」とシュミッツは言う。「いま、地球上で協力と協調そして対話をすることで、人類は月、そしてもっと遠くへ到達できるようになるでしょう」
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サンガとハーゲドルンにとって、そのような既存のシステムだけに頼る生物種の保存は十分ではない。
気候変動、核戦争、巨大火山の噴火、隕石の衝突、そのほかの大惨事により、いつ「大規模な混乱と破壊」が起こるかもわからないいま、月の貯蔵施設こそが、地球上の生命の「マスター・バックアップ・コピー」を安全な場所に保管する方法だと、サンガは言う。気温を自然に任せるか、あるいは人為的にコントロールするかという違いはあるものの、月面を利用するふたつの提案は基本的に「とてもよく似ている」とサンガは指摘し、ルナ・アークのようなものが必要とされているのは「ある意味、大きな真実である」と述べる。実際、去年の夏にはサンガはZoom会議を通じてスミソニアンのチームと面会し、双方の関心について意見交換した。
では、この種のプロジェクトにはあまりにも多くの費用がかかるという批判や、明らかに現実離れしているという意見についてはどう思っているのだろうか? ハーゲドルンとサンガは両者とも、どちらのかたちにせよルナ・アークを実現するのに必要なのは、政府による明確かつ野心的な参画だけだと確信している。
「十分な資金とNASAの支援があれば、いますぐにでも実現できるでしょう」とハーゲドルンは言う。「1960年代前半も、大統領が『10年以内に月に人を送り出す』と本気になったから、それが実現したのです。この態度こそが、わたしたちが提案しているものよりもはるかに大きな科学技術の飛躍につながったのです」
アユレラ・ホーン=ミュラー|AYURELLA HORN-MULLER
Gristでスタッフライターを務めている。
(Originally published on wired.com, translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)
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雑誌『WIRED』日本版 VOL.54
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