公開日:2024年2月9日

「大吉原展」が炎上。遊廓はこれまでどのように「展示」されてきたのか? 博物館や遺構の事例に見る享楽的言説と、抜け落ちる遊女の「痛み」(文:渡辺豪)

3月26日~5月19日、東京藝術大学大学美術館で開催される「大吉原展 江戸アメイヂング」展。SNSなどで批判が起きている本展を前に、これまで「遊廓」がどのように展示されてきたかを概観し、本件までに至る問題の根本には何があるのか、遊廓専門の出版社と書店を経営する筆者が解説。

3月26日~5月19日、東京藝術大学大学美術館で開催される「大吉原展 江戸アメイヂング」展。開催前にもかかわらず、本展はその公式サイトに書かれたステートメントや広報のあり方をめぐり、性的搾取の負を歴史を無視・軽視し、売買春の舞台となった吉原をはじめとする遊廓を美化するものだとして大きな批判が巻き起こっている。

本展は「美術館」が舞台であることが議論の発端のひとつとなっているが、では、これまで遊廓はどのように「展示」されてきたのだろうか? 今回、遊廓専門の出版社「カストリ出版」と書店「カストリ書房」を経営し、全国各地の娼街の取材・撮影を続けている渡辺豪に、博物館等での展覧会や遺構の案内板などを事例に、解説を依頼。「大吉原展」への批判に至る、遊廓の扱いをめぐる根本的な問題から、批判側への提言までを含む原稿を公開する。【Tokyo Art Beat】

*編集部注:2月8日、「大吉原展 江戸アメイヂング」への批判を受けてか、本展公式サイトにて主催者による「『大吉原展』の開催につきまして」との文章が公開された。

相次ぐ「大吉原展」への批判

ここ数日、「大吉原展 江戸アメイヂング」(以下、本展)がSNSを賑わせている。本展は、かつて江戸/東京にあった公娼街・吉原遊廓を取り上げたもので、今年3月から東京・上野の東京藝術大学大学美術館で開催される美術展である。本展公式サイトのステートメントには「『江戸吉原』の約250年にわたる文化・芸術を美術を通して検証(改行)仕掛けられた虚構の世界を約250件の作品で紹介する」とある。

公式サイトより 出典:https://daiyoshiwara2024.jp/

マンガ家・瀧波ユカリ氏のX(旧Twitter)では、前述のステートメントに続く序文を指して、「ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。」と非難するコメントをポスト。ここを起点にSNS上での意見対立を生んでいたようだ。

筆者の私は遊廓を専門に扱う書店・カストリ書房を経営しているが、同店は吉原遊廓が戦後に何度か看板を掛け替えて現在は吉原ソープ街と呼ばれる性風俗街に、2016年にオープンさせたものだ。来店する購入者は8〜9割が女性であることから、一連の動向にも、女性あるいは女性視点から提言するユーザーらが関心を寄せていたものと推察する。

本展にも通じる「江戸文化発祥の地」「煌びやかな遊興空間」「街の賑わい」といった文脈の言説を、ここでは便宜上、享楽的言説と呼ぶことにする。こうした言説はいまに始まったことではなく、商業出版物やネットを見渡してみれば、むしろ享楽的言説で満たされている。その意味で、本展を巡る動向は、発信者とテーマの掛け合わせが問われているものと理解できる。これまで遊廓なるものはどのように「展示」されてきたのか、私の取材成果を交えて紹介したい。

遊廓に関する展示の事例から

近年に絞ってみても、遊廓を取り上げた公共施設による常設展/企画展は本展に限らない。2021年、東京都立の江戸東京博物館は、約20年ぶりにジブリ作品を抜いて興行収入1位となったアニメ『鬼滅の刃』シリーズ遊郭編に絡めて、自館の展示を「煌びやかな遊郭の世界をご覧ください」と紹介、来場を呼びかけた。後日謝罪に及んでいる。

管見の限り、同館には肝心の吉原に言及する解説パネルは2枚しかなく、仮に吉原遊廓に「煌びやかな」側面が備わっていたとしても、それを理解できる環境とは言い難い。享楽的言説から訴求を図る姿勢からは、歴史を伝えるはずの同館が、吉原遊廓の歴史的意味づけを棚上げしてきたツケが窺えるものだった。

昨年2023年、横浜市立の横浜市歴史博物館では企画展『浮世の華 描かれた港崎』を開催、地元横浜にあった港崎(みよざき)遊廓を取り上げた。同館が所蔵する浮世絵を展示して同遊廓の成り立ちや地域社会での意味づけを解説するものだが、展示タイトルで明確に打ち出したとおり〝描かれた〟姿として一歩引いた展示がなされた。筆者も拝観したが、解説パネルには「当時の社会が仮託した遊廓の姿」といった文脈が織り込まれ、丁寧な展示設計のもと、充実した見学ができた。

性的搾取への問題意識が高まるなか、現状維持の展示と世相を読み違った広報、キャッチアップした世相を反映した展示、これらの明暗を2例はわかりやすく示している。わずか2年間の隔たりだが、問題意識が急速に社会に浸透している様も同時に窺い知れる。挙げた2例は歴史博物館であり、美術展に求められる視点とは異なるものだろう。ただし美術展であれ史実を足場とするのであれば、歴史や当時を生きた人々への丁寧な取り扱いが求められ、併せて近年の社会課題と隣接するテーマならば、一層慎重さが求められる。加えて、アートに社会課題を克服する原動力を期待するならば、「性売買とアート」は、むしろ核心に切り込むポテンシャルを持つテーマでもあったのではないか。が、反対に弊習への加担を指摘され、少なくとも現時点では「つまづき」以上の印象を残している。

遊廓の遺構の案内板

「展示」を広義に解釈すれば、博物館/美術館に限らず、遊廓の遺構などに地元の自治体が案内板を掲示している場面も含まれるだろう。本展の舞台である吉原遊廓跡には、吉原弁財天という社寺が残る。ここに台東区教育委員会が設置した案内板「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」には「新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を」担った、とある。碑名もさることながら本文も享楽的言説に連なるもので、商業出版やネットに限らず、教育分野でも享楽的言説に染まっていることが分かる。不特定多数が目にする野外に置かれているものだが、私個人の予想では、こうした案内板がSNSで物議を醸す可能性は少ない。文章をコピペできないといったネットツール特有の事情にもよるが、設置が平成17(2005)年とあり、既に約20年以前に設置されたものは時代的限界と理解され得るからだ。その意味でも、本展に加えられた非難に「いまさら」といったものが散見されるのは、発信者のみならず、時流が問われている証左だろう。

吉原弁財天には、今からちょうど100年前に発生した関東大震災で没した遊女らを弔う観音像(大正15年造)が立つ 撮影:渡辺豪(無断転載禁止)

次は富山県魚津市に設置された遊廓跡を示す案内板である。遊廓への直接的な評価はないが、「風流」「優雅」という美的形容との接続がみられる。設置主体と設置年は不明だが、地元自治体によるものと推察する。私の取材の限り、こうした美化は各地の遊廓跡に多く確認された。

富山県魚津市を流れる鴨川周辺には遊廓があり、現在も飲食店が並ぶ 撮影:渡辺豪(無断転載禁止)

先に「時代的限界」と述べたが、では今後こうした案内板が老朽化などを理由に刷新される際に、時代に即応した表記となるのか?というと、必ずしもそれは望めない。日本海各地の都市は、江戸後期から明治初期にかけて北前船寄港地としての性格を有したが、北前船寄港地と船主集落は『荒波を越えた男たちの夢を紡いだ異空間』との総称でまとめられて、文化庁が設ける日本遺産に認定され、観光資源としても活用されている。構成文化財のひとつは、新潟市湊稲荷神社に残る高麗犬(こまいぬ)だが、市内各所に設置された案内板には、遊廓や性売買に由来する伝承は不可視化されている。遊廓に関連した遺構が観光と結びつくことで、歴史文化との向き合いよりも美化や不可視化が加速されることを、この事例は示唆している。余談だが、先の総称もいずれ厳しい目を向けられることは避けられないと予想する。歴史認識以前に、観光資源としての有効性については後述する。

新潟市内各所に設置された案内版。遊女が船出を阻むため願掛けしたことが、男女の恋愛に希釈する脱文脈化がみられる 撮影:渡辺豪(無断転載禁止)

なぜ「遊廓博物館」は存在しないのか

現在、公設/私設を問わず、遊廓を専門に展示する博物館その他公共施設は存在しない。たとえば、明治時代の長崎県南島原市口之津は、三池炭坑の石炭を海外輸出する主要な積出港であったことから、海外出稼ぎの娼婦いわゆる「からゆきさん」を密航させる港でもあった。地元の口之津歴史民俗資料館分館では、地元遊廓やからゆきさんに関する展示を設けている意欲的な施設だが、展示はブース単位に留まっている。

同館に限らず、稀に公的施設で限定的な展示がなされていても、性売買産業に就いていた女性の実態や評価を避け、歴史的事実を叙述するのみに留まっている印象がある。遊廓すなわち公娼制度は、国家(各府県)が許容した法制度であったため、深くコミットしようとすれば自然と行政側の責任問題への言及は避けられず、したがって公的にオーソライズされた遊廓博物館は今後も望めないのではないかと私は考えている。(その意味でも、賛否両論ではあったが、国立歴史民俗博物館が2020年に開催し、性売買関連に大きく展示を割いた「性差(ジェンダー)の日本史」展には、小さくない意義を覚えた)

「性差の日本史」展(国立歴史民俗博物館、2020)の展示風景より、娼妓の生活道具の数々 撮影:編集部 出典:https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/gender_in_japan

このように遊廓を扱う展示がどこかねじれた方向にあるいっぽうで、当事者すなわち遊廓があった地域にいまも住んでいる人々は、どのように遊廓の歴史文化に向き合っているのか。ともすれば臭いものにはフタ式にタブー視されるのが常と思い込まれている節もあるが、むしろ自分たちの歴史の1ページとして大切に保全している地域もある。私は2020年頃から遊女を弔うために建立された墓や供養塔(以下、遊女墓)の取材や関係者へのインタビューを続けているが、たとえば石川県小松市では江戸中期から明治初期に建立された遊女墓の保全活動が代々続いている。必要な労力やコストは決して小さくなく、これを町内会が支えている。今般の能登半島地震でも地域コミュニティの大切さが再確認されたが、遊廓の歴史文化を紡ぐ活動がいまなお地域の絆を醸成させる役割を担っている点は、本旨からは外れるが強調したい。

観光資源と負の歴史

最後に、民間における娼家建築そのものの取り扱いについて概観する。近年は、遊廓に用いられていた娼家建築に観光資源の可能性を見出し、飲食、宿泊、コワーキング施設などに活用される事例が、決して数は多くはないものの、散見されるようになってきた。いっぽうで保全を主体においた施設は寡聞にして知らない。活用は多くは賞賛をもって迎えられる活動だが、上記のような事業を展開するうえでは造作の改変は避けられず、こと歴史文化の保全面においては「破壊・摩滅の加速」と同義である。改変された造作から史実を誤解する可能性もあり、活用と保存を混同する危険性を指摘したい(自由な経済活動としての活用は何ら非難されない点も、誤解ないよう言い添える)。集客を前提とした解釈や演出も見られる。

以上、「展示」を取り巻く環境を縷々述べてきた。「物事には二面性がある。清濁併せ持つ歴史文化の良い面を見ようとしてなぜ悪い?」と、本展に賛同する人は反論するかも知れない。歴史文化に多面性、多義性があることはその通りである。が、いっぽうで次のような指摘もある。

2007年にユネスコ世界遺産に登録された石見銀山を訪れる観光客は、ピーク時の年間80万人から30万人程度まで落ち込んでいる。過酷な鉱山労働には見せしめのための処刑が洋の東西を問わず存在しており、石見銀山もまた例外ではないが、石見銀山の資料館には、これら〝負の歴史〟への言及はない。井出明氏(金沢大学)は、観光客の来場が先細る傾向を指して、「光の歴史のみで地域を見せている一種の『虚構性』にも原因があるのではないだろうか」(*1)と指摘している。井出氏の指摘は観光学からの知見だが、学びと関心の相関という意味では、美術展にも通底する示唆に富むものだ。良かれと思って「良い面を見せよう」とする行為そのものが、実は行為者の善悪によって処理されてしまうことで、ときに社会の歩調とズレたり、負の側面を再現してしまうことは江戸東京博物館の事例で示したとおりである。

人見佐知子氏(近畿大学)は、娼家建築の活用を巡る意識変化に触れ、それまで見られた娼家建築が持つ性売買の歴史的文脈への忌避や抵抗が薄れていく時期に2010年代以降を挙げている(*2)。建築の保存・活用を巡る意識への指摘ではあるが、本展ステートメントでは負の歴史への言及は極めて希薄で、「良い面を見よう」との意識変化も2010年以降の脱文脈化に連なるものである。1958年に『売春防止法』が施行されて、遊廓と俗称される業態が消滅したのち半世紀あまり経った2010年代以降、当時を知る人々は次第にこの世を去っていったであろうし、そのために急速に記憶や感情が薄れていったものとみられる。同時に遊女とされた女性たちの「痛み」もまた忘れられつつある。

「買う側」視点から「加害側」視点へ

批判側が視野に収めるのは、女性全体の性搾取であり、遊女という個別的存在ではないように見受けられる。遊女という存在を通して女性全体を見渡そうとする着眼に異存はない。いっぽうで、であるならば遊女なるものが如何なる存在であったのか、より追求していくことも必要ではないだろうか。遊女の歴史認識は、擁護側、批判側も虚実ない交ぜの曖昧な言説に依拠したものも多く散見され、この機会に実態を追求しようとする試みは、管見の限りみられなかった。

加えて、本展への批判に多く用いられている「買う側視点」との指摘だが、「加害側」としたほうが、より多くを視野に収め、議論が深まるのではないかと私は考える。「買う側」とは遊客男性を指すものと理解できるが、では近隣の商業活動、例えば寝具店、衣料品店、医療業、雑貨店、飲食店、銭湯など、遊廓の〝賑わい〟に期待した営業者は加担していなかったと言い切れるだろうか──。

加害とは何か?について冷静に考えてみる必要がある。明治期以降、遊女(当時は法的に「娼妓」と呼ばれた)からの徴税した金は地方税となり、地域の様々な公共活動に注がれていった。一例を挙げれば、宮城県仙台市では地域病院(のち東北大学医学部に発展)の設立に用いられたことが文献(*3)から確認できる。吉原ソープ街に隣接して台東区立台東病院が建つが、同病院も吉原病院という遊女の性病予防と治療を目的に創設された医療施設だった。現在、同病院には区内外から多くの人々が来院し、心身の健康を保っている。私を含む地域住人の健康は、遊女の犠牲と貢献の上に成り立っている。

当時の遊客や経営者が遊女とされた女性たちの身体を押し開き、人格をも押し潰していったことは否定のしようもない。加害を広くとらえることで「買う側」の責任が相対化され、希釈されることもない。いっぽうで「大を生かすために小を犠牲にする」の論理で許容し、〝賑わい〟に期待していたのは私たちと同じ、直接的には性売買業と関わりのない一般世間であったことは、どれほど認識されているだろうか。そして彼女らの犠牲と貢献は過ぎた過去ではなく、いまを生きる私たちは、医療をはじめとする何かしらのかたちで、土の下に眠る彼女たちの上に立って生きている。

最後に。非難する側が「買う側」に力点を置き続けることで、非難される側は「買う側」視点の排除のみに腐心したり、あるいは「当時の遊女は遊客を振ることもできた」といった言説などエクスキューズを用意させることに終始させてしまうのではないか。事実、本展ステートメントでは対象期間を江戸250年間と限定して明治期以降を除外したが、これも享楽的言説との辻褄合わせにも映り、高橋由一の油彩画『美人(花魁)』(明治5[1872]年)を扱うなど不整合も生じている。

結局は非難する側される側の共同作業で、安全ラインを引くような作業に落ち込み、俎上に乗せられた性的搾取の我が事よりも、他者化が進む。引き合いに出された遊女本人の痛みや尊厳は、どこまでも蚊帳の外にあるようである。

【参考文献】
*1──井出明『悲劇の世界遺産 ダークツーリズムから見た世界』
*2──人見佐知子『妓楼遺構の保存と活用をめぐる一考察』
*3──宮城県医師会『宮城県医師会史 医療編』


渡辺豪

わたなべ・ごう 1977年福島県生まれ。2015年に遊廓専門の出版社「カストリ出版」を創業、主に貴重書の復刻を行う。2016年、吉原遊廓跡に遊廓専門の書店「カストリ書房」を開店。全国各地の娼街の取材・撮影を行う。単著に『遊廓』(新潮社、2020)。