仏性
仏性(ぶっしょう)とは、仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。「覚性」とも訳される。また『法華経』では、仏種「仏に成る種」、『勝鬘経』では、如来蔵などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。
仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
宗派による見解の違い
歴史的な流れ
仏教全体として「すべての衆生が仏性を持つ」という統一見解はなく、以下のように宗派により見方は異なっている。
まず、原始仏教の時代には仏性という観念はまだなかった。 釈迦入滅後、根本分裂が起こり、またAD100年ごろには枝末分裂が起こり、両派あわせて20前後の部派仏教が成立した。この当時の部派仏教では、誰でもが悟れるのか、あるいは一部の人しか悟れないのか、などという様々な議論が起こった。
上座部仏教(南伝仏教)では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捉え、出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢になることを目的とする。煩悩を断尽すると自然と身から火が出て消滅し二度と生じないとされる[1]。
これに対して、大乗仏教(北伝仏教)では、阿羅漢を小乗とみなして、その上の尊格に仏を立てた。また大乗仏教の教理では、誰もが救われることを主眼に置き、出家はもちろん在家でも救われると考えられ、誰もが仏になれる可能性があるとした。つまり衆生に仏性があるという考え(如来蔵思想)が生まれた。
仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性)が説かれた。
しかしどの仏典でも同様に説かれたわけではなく、さらに時代を下った後期に成立した大乗経典であり、法相宗が所依とした『解深密経』などでは、衆生には明らかに機根の差があるため誰もが成仏できるわけではない、『法華経』が一乗を説くのは能力のない衆生が意欲をなくすのを防ぐための方便である、と説いた。
宗派による違い
上記のような各仏典の成立の前後関係が判明したのは、近代の科学的な史料批判の後である。 それ以前においては、仏典の前後関係及び価値の軽重は、宗派的視点により決められた(教相判釈)。 特に有名なものは、天台宗の智顗による五時八教の教相判釈である。智顗によれば『解深密経』は『法華経』や『涅槃経』より以前に説かれた方等部の経典で権大乗(仮に説かれた方便の教え)であり、『法華経』に導く手前の教えとした[2]。すなわち、より後に説かれたとする『法華経』や『涅槃経』を優先し、一切衆生悉有仏性説こそ正しいとした。この点では、上記の現代における研究の結果である『解深密経』が『法華経』よりも遅い成立であるとする考えと一致していることになる。
さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。
日本仏教では、奈良仏教(法相宗等)は全体として成仏への道程は人の機根に応じて違いがあるするのに対して、平安仏教(天台宗・真言宗)では悉有仏性説を説いた。 時代が下り、鎌倉仏教(浄土宗・禅宗・日蓮宗)になるとことさらに女人も成仏できると主張するように変化した。
このように、仏性や一切衆生悉有仏性は、仏教全体に共通する教義ではない。
しかし現在の日本仏教では、法相宗などの一部の宗派を除き、仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている。
三因仏性
『大般涅槃経』獅子吼菩薩品に説かれるものを智顗が整合し確立した、成仏のための3つの要素を三因(さんいん)仏性という。
- 正因仏性 - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
- 了因仏性 - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露した仏性のこと
- 縁因仏性 - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと
三因仏性は通常は智顗の説を指す場合が多いが、世親の『摂大乗論』や『仏性論』には次の3つを説き、これを三因仏性という場合もある。
- 自性住仏性 - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
- 引出仏性 - 修行により引き出されて露見する仏性のこと
- 至得果仏性 - 上記の2つが仏果として完成し成仏して実った仏性のこと