ナタン・ラフリン
ナタン・グリゴリエヴィチ・ラフリン | |
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基本情報 | |
生誕 | 1905年12月28日 |
出身地 | ロシア帝国、チェルニゴフ近郊スノフスク |
死没 |
1979年6月28日(73歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、カザン |
学歴 | キエフ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
ナタン・ラフリン(ロシア語: Ната́н Григо́рьевич Ра́хлин / ウクライナ語: Натан Григорович Рахлін/ Natan Grigoryevich Rakhlin, *1905年12月28日 チェルニーヒウ近郊スノフスク - †1979年6月28日 カザン)は、ウクライナ出身のソビエト連邦の指揮者。
略歴
[編集]ユダヤ系の家庭に生まれる。1920年から1923年まで赤軍に所属。1923年から1927年までキエフ音楽院に在籍し、ヴァイオリンをD.F.ベルティエに、指揮法をアレクサンドル・オルロフに師事。また、トランペットも学んだ。その後はレニングラードでマクシミリアン・シテインベルクにも指揮法を師事している。ハリコフやキエフ、モスクワ、カザン、ドネツクで指揮者として経験を積んだ後、1937年から1941年まで、また1946年から1962年までウクライナ国立交響楽団の指揮者に迎えられた。その間の1941年から1945年にかけてはソヴィエト国立交響楽団の指揮者に就任している。1957年にショスタコーヴィチの《交響曲 第11番「1905年」》の世界初演を指揮した。1966年よりタタールスタンのカザン管弦楽団の首席指揮者に就任した。このほかに、モスクワ放送交響楽団やレニングラード交響楽団なども指揮している。
評価と受容
[編集]19世紀のロマン主義音楽を得意とし、ベルリオーズの《幻想交響曲》とリストの交響詩やチャイコフスキーの管弦楽曲など、なかんずく標題音楽の解釈に長けていた。ボリス・リャトシンスキーやヴィクトル・コセンコ、ワディム・ゴモリャカ、ヘオルヒイ・マイボロダ、レフコ・コロドゥープなどのウクライナ人作曲家の作品もレパートリーに入れた。生前は、多くのソヴィエト映画に音楽監督として名を連ねるなど、ソ連の名指揮者の一人に数えられたにもかかわらず、遺憾なことに重要な録音が入手し難い現状にある。
音源
[編集]- Reinhold Glière symphony #3 - 2nd mvt Part I (1911)
- Reinhold Glière symphony #3 - 2nd mvt Part II (1911)
- Reinhold Glière symphony #3 - 2nd mvt Part III (1911)
外部リンク
[編集]- Natan Rakhlin - IMDb
- ナタン・ラフリンの著作およびナタン・ラフリンを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
先代 アレクサンドル・ガウク |
ソヴィエト国立交響楽団音楽監督 1941–1945 |
次代 コンスタンチン・イワーノフ |