コンテンツにスキップ

バビロン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バビロン
Bābilim
A partial view of the ruins of Babylon
バビロンの遺跡の一部
Babylon lies in the center of Iraq
Babylon lies in the center of Iraq
近東における位置
Babylon lies in the center of Iraq
Babylon lies in the center of Iraq
バビロン (イラク)
別名
所在地 イラク共和国バビル県ヒッラ
地域 メソポタミア
座標 北緯32度32分32秒 東経44度25分17秒 / 北緯32.542199度 東経44.421435度 / 32.542199; 44.421435座標: 北緯32度32分32秒 東経44度25分17秒 / 北緯32.542199度 東経44.421435度 / 32.542199; 44.421435
種類 居住地
所属 バビロニア
面積 約9平方キロメートル
歴史
完成 紀元前1894年頃
放棄 紀元1000年頃
文化 シュメール、アッカド、アムル、カッシート、カルデア、アケメネス、ヘレニズム、パルティア、サーサーン
追加情報
関係考古学者 ホルムズ・ラッサム、ロベルト・コルデウェイ、ターハー・バーキル、現代のアッシリア学者
状態 廃墟(遺跡)
所有者 イラク共和国
世界遺産 バビロン
イラク
バビロンにおけるレンガの構造物。2016年撮影。
バビロンにおけるレンガの構造物。2016年撮影。
英名 Babylon
仏名 Babylone
面積 1,054.3 ha
(緩衝地帯 154.5 ha)
登録区分 文化遺産
文化区分 遺跡
登録基準 (3), (6)
登録年 2019年(第43回世界遺産委員会
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

バビロン(Babylon)は、メソポタミア地方の古代都市。市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がる。ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王(在位前1792年 - 前1750年)が最初の黄金時代を築いてからは、アッシリア、バビロニアなど、支配者は次々と変わり、紀元7世紀にイスラムの時代に入って以降、衰退した。その遺跡は、2019年にUNESCO世界遺産リストに登録された。

概要

[編集]
バビロンの平面図。外側と内側に城壁で囲まれている

バビロンが文書に登場する最初のものは、アッカド帝国のサルゴンの治世(紀元前2334年から2279年)の粘土板である。その中で、バビロンは小さな町として言及されている。ユーフラテス川の両岸に沿って建設されたこの都市には、川の季節的な洪水を防ぐための高い堤防があった。バビロンは、古代メソポタミアで勃興したバビロニア帝国の首都でもあった。バビロニア帝国は、時代を隔てて二度、この地域を支配した。一度目は紀元前19世紀から15世紀にかけて、そして二度目は紀元前7世紀から6世紀の間にかけてである。町に人が居住していた最後の記録は紀元10世紀のもので、その頃にはバベルと呼ばれる小さな村となっていた。

町は、紀元前19世紀にバビロン第1王朝が台頭したことで、小さな独立した都市国家の一部になった。紀元前18世紀にアモリ人の王ハンムラビは、古バビロニア帝国を興した。彼はバビロンを大都市に造り替え、自らをその王と宣言した。メソポタミア南部はバビロニアとして知られるようになり、バビロンはこの地域の聖地として、ニップルをも凌ぐようになった。だが、この帝国はハンムラビの息子サムス・イルナの下で衰退し、その後長い間、バビロンはアッシリア人、カッシート人エラム人の支配下にあった。アッシリア人が破壊・再建した後、前609年から前539年まで、バビロンは新アッシリア帝国の後継である新バビロニア帝国の首都となった。バビロンの空中庭園は、古代世界の七不思議の一つとして位置づけられた。新バビロニア帝国の崩壊後、バビロンはアケメネス朝ペルシアセレウコス朝パルティアローマ帝国、そしてサーサーン朝ペルシアなどの諸帝国の支配下に置かれた。

バビロンが世界最大の都市だった時期は紀元前1770年 - 1670年頃と、紀元前612年 - 320年頃と見られている。おそらく、一番早く人口が20万人に到達した都市であったと思われる[2]。その区域の最大範囲は、890 - 900ヘクタールに及ぶものと推測される[3][4]。バビロンには50以上の神殿があり、主神はマルドゥクだった。他にも三位一体黄道帯の支配者であるシン)、シャマシュ太陽)、イシュタル金星)などが祀られていた。

バビロンは二重構造の城壁で囲まれており、内側の塁壁は二列に並んでいて、内側の壁は厚さ6.5メートル、外側の壁は厚さ約3.5メートルあった。外壁の外には南と北にユーフラテス川から水を引いたがあり、城門が八つあったという。また、ネブカドネザル2世によって付け加えられた外側の塁壁も二列に並んでいて、内側の壁の厚さは約7メートルあった。東部にはもう一組の二重城壁があった。いくつかの門から市内に街路が通っていて、主要な大通りの行列道路は舗装され、両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られた。両岸はバビロンの川底トンネルで結ばれたという。

街の遺跡は、今日のイラクバグダードの南85km、バービル県ヒッラにあり、その境界は、面積約10.5平方キロメートルに及ぶ古代の市外壁に基づいている[5]。遺跡は、壊れた泥レンガの建物やがれきで構成されている。バビロンに関する主な情報源 ― 遺跡の発掘、メソポタミアの他の地域で発見された楔形文字文書、聖書、古代の文書(とりわけヘロドトス)における記述、あるいは(クテシアスベロッソスなどの文書の)引用による文書など ― をつなぎ合わせても、その完全な実像に迫ることは難しい。史料同士が相互に矛盾さえしており、その辺りの事情は、都市が最盛期であった紀元前6世紀についても同様である[6]。2019年、ユネスコはバビロンを世界遺産に登録した[7]。この場所には毎年何千人もの人が訪れ、そのほぼ全てがイラク人である[8]。周辺では開発が急速に進んでおり、遺跡への浸食が起きている [9] [10] [11]

呼称

[編集]

その名はアッカド語で「神の門」を意味するバーブ・イリ(ム)(𒆍𒀭𒊏𒆠Bāb-ili(m)[注釈 1])に由来する。古代ペルシア語: 𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁 Bābiruš、古代ギリシア語: Βαβυλών Babylōn、ヘブライ語: בָּבֶל‎ Bāvel、アラビア語: بابل‎ Bābil などはその借用である。バビロニア古代ギリシア語: Βαβυλωνία Babylōnia)の語はバベルにもとづく。

シュメール語の「神の門」に由来するという説

[編集]

アーチボルド・セイスが1870年代に述べたところによると、バブ・イル(Bab-ilu)またはバブ・イリ(Bab-ili)は、比較的早期のシュメール語の名前であるカ・ディミラ(Ca-dimirra)の翻訳であると考えられる(以前は、テューラニア語系に属すると提唱されたが、現在ではこの説は採用されていない)。カ・ディミラ(Ca-dimirra)は「神の門」を意味し[12][13]、「KAN4 DIĜIR.RAKI」(シュメール語の言葉「カン・ディグラック(kan diĝirak) = 神の門」に相当する)またはその他の文字に由来する[14]

ドイツの学者ディーツ・オット・エドザードによると、街はもともとはバビラ(Babilla)と呼ばれたが、ウル第三王朝の頃までには語源の思索のプロセスを経て、「神の門」(バブ・イル Bab-Il)を意味するバブ・イリ(ム)(Bāb-ili(m))になったとする[15]

「神の門」由来の否定説

[編集]

「神の門」という訳は、意味が判然としない非セム語の地名を説明するための民間語源だという考えも強まっている[16]。言語学者イグナス・ジェイ・ゲルブは、バビルまたはバビラ(Babil / babilla)という名前は都市の名前の根本部分だが、その意味と起源は未知とすべきだと1955年に提案した。理由として、他のよく似た名前の場所がシュメールにあったことと、シュメール語の地名がアッカド語の翻訳に置き換えられた例が他に無いことを挙げている。イグナス・ゲルブの説では、バビル(またはバビラ)は、後にアッカド語のバブ・イリ(ム)(Bāb-ili(m))に変形したのであって、シュメール語のカ・ディグ・イラ(Ka-dig̃irra)はむしろ逆に、バビルまたはバビラからの翻訳であるとの結論に達した[17][18]

聖書における名前

[編集]

聖書では、その名は「バベル」として登場する。創世記では、「混乱する」を意味するヘブライ語の動詞ビルベル(bilbél)から、「混乱」という意味で説明されている[19][20]。現代の英語の単語「babble」(意味の無いことを話す)は、一般にはバベルという名前に由来すると考えられているが、直接の関係は無い[21]

他の都市をバビロンと呼んだ例

[編集]

古代の記録の中では、「バビロン」を他の都市の名前として用いている例がある。例えば、バビロンの影響圏にあるボルシッパをそう呼んだ例や、アッシリアがバビロンを占領・略奪した後の短期間、ニネヴェのことをバビロンと呼んだ例がある[22][23]

バビロンの再発見

[編集]

紀元19世紀初めになると、古代メソポタミア地方における発掘作業が始まり、その後の数十年でさらに活発になった。遠征隊による発掘の場所はアッシュル、ニムルド、ニネヴェなど、アッシリア帝国の首都に関する場所が多かった。これは、他の場所よりも遺跡が目立っていたことにもよる。その名前の重要性のゆえに、一連の遠征の後半になると、バビロンにおける発掘も行われるようになった。これらの遠征は、当時の気鋭の考古学者から成るチームによって実施された。これに続いて19世紀後半には、市の遺跡をさらに調査するための遠征が行われたが、それらの場所のほとんどは今もなお調査されていない。しかも、イラク政府がその計画を実施した結果、史跡のいくつかは再建と修復を必要とすることがわかり、かつ、当時のイラクの政治情勢により、発掘の実施は困難となっていった[9][10]

地勢

[編集]
バビロンの地図。主な場所と現代の村も記載
1932年当時のバビロン

ユーフラテス川の両岸に沿って建設された古代都市は、川の季節的な洪水を防ぐための急な堤防を備えていた。街の遺跡は現在のイラクのバグダッドの南約85 km、バビル県のヒッラにあり、壊れた泥レンガの建物やがれきの山から成る[13]。バビロンの遺跡は、ユーフラテス川の東側の南北方向約2キロメートル× 1キロメートルの地域を埋める多数の丘で構成される。もともと街は川で二分されていたが、その後、川の流れが変わり、かつての街の西部の遺跡のほとんどが浸水した。川の西側の城壁の一部は、今もなお残っている。

これまでに発掘されたのは、古代都市のごく一部(内壁内の面積の3%、外壁内の面積の1.5%、古バビロン・中期バビロンの深さに対して0.1%)のみである[24]。既知の遺跡は次のとおり。

  • カスル(Kasr):宮殿または城とも呼ばれ、新バビロニアのエテメナンキ(エ・テメン・アン・キ)のジッグラトがある場所であり、遺跡の中心にある。
  • アムラン・イブン・アリ(Amran Ibn Ali):南にある、丘の最高地点。高さ25メートル。マルドゥクの神殿であるエサギラの遺跡であり、エアとナブーの神殿もある。
  • ホメラ(Homera):西にある、赤みがかった丘。ヘレニズム時代の遺跡のほとんどはここにある。
  • バビル(Babil):遺跡の北端にある、高さ約22メートルの丘。そのレンガは古代から略奪されてきた。ネブカドネザルによって建てられた宮殿があった。

考古学者は、新バビロニア時代以前の人口遺物のほとんどを復元できていない。この地域の地下水面は何世紀にもわたって大幅に上昇しており、新バビロニア帝国以前の遺物は現在の標準的な考古学的手法では発掘できない。さらに、新バビロニア人はバビロン市内で重要な再建事業を実施したが、これにより、それ以前の時代の多くの記録を破壊または埋没させてしまった。バビロンは、外国の支配に何度も反抗してきた。主なものとしては紀元前2千年紀にはヒッタイト人とエラム人に対して、紀元前1千年紀には新アッシリア帝国とアケメネス朝に対して反乱を起こしたが、鎮圧される度に略奪が繰り返された。バビロン市の西半分の多くは現在、メソポタミア川の下にあり、また、遺跡の他の部分は営利的建築資材として採掘されてきた。

コルデウェイだけが、発掘調査により古バビロニア時代の遺物を回収した。この中には、民家から発掘された、シュメール文学と語彙文書が刻まれていた967枚の粘土板が含まれていた[24]

バビロンの近くにある古代の居住地としては、キシュ、ボルシッパ、ディルバト、クターがある。マラドとシッパルは、それぞれユーフラテス川に沿って60kmの距離にあった[24]

史料

[編集]

バビロンに関する主な史料 ― 遺跡そのものの発掘、メソポタミアの他の場所で見つかった楔形文字文書における言及、聖書における言及、他の古典文書(特にヘロドトスによる)における説明、古典文書の中における引用(クテシアスとベロッソスの作品を引用)による説明 ― は、紀元前6世紀の都市最盛期の時代のものでさえ、当時のことを知るには不完全で、時には矛盾している[25]。バビロンは、クテシアス、ヘロドトス、クイントス・クルティウス・ルフス、ストラボン、クレイタルコスなど、多くの古典的な歴史家によって説明され、そのうち実際に訪問した者もおそらくいた。これらの報告の精度はさまざまであり、一部の内容は政治的な動機に基づいているが、それでも有用な情報を提供してくれる[26]

だが、バビロンの初期の様子を知るためには、これらの史料では足りないため、ウルク、ニップル、シッパル、マリ、ハラダムなど、他の場所で見つかった碑文の情報を統合する必要がある。

初期の言及

[編集]

小さな町としてのバビロンについての最も初期の言及は、現在わかっているものとしては、アッカド帝国のサルゴンの治世(紀元前2334-2279年)の粘土板に遡る。バビロン市への言及は、紀元前3千年紀後半のアッカド語とシュメール語の文学に見られる。最も初期のものとしては、アッカドの王シャル・カリ・シャッリがバビロンにアンヌニトゥム(Annūnı̄tum)とイラバ(Ilaba)のために新しい神殿の基礎を築いたことを説明する粘土板がある。バビロンは、ウル第3王朝の行政記録にも登場する。ウル第3王朝は、現物での納税を徴収し、エンシ(ensi。シュメールにおける称号の一種)を地方知事として任命した[18][27]

いわゆるウェイドナー年代記(ABC 19としても知られる)では、アッカドのサルゴン(短い年代記では紀元前23世紀頃)が「アッカドの前に」バビロンを建てたと述べている(ABC19:51)。後の年代記では、サルゴンが「バビロンの穴の土を掘り起こし、アッカドの隣にバビロンと対応するもの(都市?)をつくった」と記されている(ABC 20:18-19)。マーク・ヴァン・デ・ミエロープ(Marc Van de Mieroop)は、これらの史料はアッカドのサルゴンではなく、はるかに後のアッシリア王サルゴン2世の新アッシリア帝国に言及している可能性があることを示唆している[23]

古代における年代決定

[編集]

シケリアのディオドロスが引用し、そしてゲオルギオス・シュンケロス(George Syncellus)の『年代記』(Chronographia)にも記載されているところによると、クテシアスは、自分がバビロニアの記録の写本を見ることができたと主張したという。それによれば、バビロンの建設は、最初の王ベルス(Belus)の下、紀元前2286年に行われた[28]。同様の数字がベロッソスの著作にも見られる。ベロッソスはプリニウスを引用して[29]、天文観測はギリシャのポローネウス時代の490年前、紀元前2243年にバビロンで始まったと述べている。ビザンチウムのステファヌスはバビロンが建設された時期を、レスボスのヘラニコスがトロイ包囲したと記している年(紀元前1229年)からさらに1002年遡った年、すなわち紀元前2231年だと書いている[30]。これらの日付はすべて、バビロンの始まりを紀元前23世紀としている。しかしながら、これらの(楔形文字以後の)古典文書の記述に対応する楔形文字の記録は見つかっていない。

歴史

[編集]
夜の女神の彫刻。この姿は、バビロニアの性と愛の女神であるイシュタルの一形態である可能性がある。

バビロンについて証明する最初の言及は、紀元前3千年紀の後半、アッカド帝国の統治者シャル・カリ・シャッリの治世中にある。彼の治世における年を表現する名前の中に、バビロンに2つの神殿を建てることに言及しているものがある。バビロンは帝国のエンシ(知事)によって統治されていた。知られている知事としては、アッバ(Abba)、アルシ・アー(Arši-aḫ)、イトゥリ・イルム(Itūr-ilum)、ムーテリ(Murteli)、ウナバタル(Unabatal)、プズル・トゥトゥ(Puzur-Tutu)がいる。その後、スム・ラ・エルの時代まで、バビロンについての言及はなくなる。紀元前1950年頃以降になると、南部のウルクとラルサにアムル人(アモリ人)の王国が出現する[31]

古バビロニア時代

[編集]
紀元前1792年にハンムラビが王になった時及び紀元前1750年にハンムラビが死去した際のバビロニアの領土を示す地図
古バビロニアの円筒印章、赤鉄鉱。この印章は、おそらくハンムラビの治世中またはその直前に、シッパルの工房で作られた[32]。 王が太陽神シャマシュに動物を捧げる様子を描いている。
上の円筒印章のラインスキャンカメラ画像(印影に似せるため、反転してある)。

バビロニアの時代リストによると、バビロンでのアムル人[注釈 2]の支配は、隣接する都市国家カザル(Kazallu)からの独立を宣言したスム・アブム(Sumu-abum)という名の首長から始まった(紀元前19世紀または18世紀)。スム・ラ・エル(Sumu-la-El)は、スム・アブムと同時代である可能性があり、通常、バビロン第1王朝の始祖と考えられている。両者ともバビロンの城壁を建設したとされているが、いずれにせよ史料には、バビロンにおける限定的な支配を確立したスム・ラ・エルの軍事的成功について記されている [33]

当初、バビロンは弱小都市国家であり、周辺の領土までは支配していなかった。その最初の4人のアムル人の支配者は、王の称号を名乗らなかった。エラム、イシン、ラルサなどの古くからの強力な国家や北メソポタミア王国を作り上げたシャムシ・アダド1世のような強力な支配者が、ハンムラビがバビロン第1王朝を築くまでバビロンを脅かし続けた。ハンムラビ(在位前1792年 - 前1750年)はハンムラビ法典を作成したことで有名である。ハンムラビはメソポタミア南部のすべての都市と都市国家を征服した。これには、イシン、ラルサ、ウル、ウルク、ニップル、ラガシュ、エリドゥ、キシュ、アダブ、エシュヌンナ、アクシャク、アッカド、シュルッパク、バド・ティビラ(Bad-tibira)、シッパルが含まれる。ハンムラビはこれらを一つの王国に統一し、バビロンを首都として支配した。ハンムラビは東のエラム、そして北西のマリとエブラの王国にも侵攻し、これらを征服した。ハンムラビの治世の後半には、北メソポタミア王国のシャムシ・アダド1世の後継者にも貢納を課した。

現代の歴史学者は、ハンムラビの治世の後のメソポタミア南部全体をバビロニアとも呼ぶ。この時代から、バビロンはニップルとエリドゥに代わり、メソポタミア南部の主要な宗教の中心地となった。ハンムラビの帝国は、彼の死後に不安定化した。アッシリア人は、バビロニア人とアムル人を破り、自国から追い払った。また、メソポタミアの南端では地元民による海の国が独立し、エラム人はメソポタミア東部の領土を占領した。ハンムラビの王朝はバビロンで権力を維持したが、バビロンは再び小さな都市国家に戻ってしまった。

古バビロニア時代の文書では、しばしば、最高神として扱われるシッパルの太陽神シャマシュと、彼の息子と見なされるマルドゥクに言及されることがある。後にマルドゥクは高い地位に昇り、逆にシャマシュの地位は低下した。これはおそらくバビロンの政治力の高まりを反映している。

中期バビロニア時代

[編集]

紀元前1595年 [注釈 3]、バビロンは小アジアのヒッタイト帝国に敗れた。ヒッタイトは故国に引き揚げたものの、メソポタミアは争乱の時代に突入、「海の国」と呼ばれる国の支配を経て、その後、カッシート人がバビロンの街を占領して王朝を建設した。この王朝は紀元前1160年まで435年間続いた。

カッシート人の時代にバビロンは弱体化し、その結果、カッシート人のバビロンは、エジプトのファラオであるトトメス3世に貢納し始め、ミタンニに対する8回目の軍事遠征に協力した[34][35]。カッシート人のバビロンは、最終的には北方の中アッシリア帝国(前1365年-前1053年)及び東方のエラムに従属した。両国は、バビロンの支配権を争った。

紀元前1155年までに、アッシリア人とエラム人による攻撃と領土の併合が続いた後、カッシート人はバビロンから追放された。その後、イシン第2王朝バビロンを統治した。しかし、依然としてバビロンは弱く、アッシリアによる支配を受けた。その無力な王たちは、新たにレヴァントの砂漠から流入してくるアラム人とストゥ人のような西セム人の外国人入植者の動きを防ぐことができなかった。紀元前9世紀にはカルデア人が侵入してきて、バビロニア地域を支配した。

アッシリア時代

[編集]
バビロニアとの戦争中(紀元前691年ハルルの戦い)のアッシリア王、センナケリブ。ニネヴェの宮殿から出土した浮き彫り

新アッシリア帝国(前911年-前609年)の統治の間、バビロニアは常にアッシリアに対して劣位にあったか、あるいは直接の支配を受けた。センナケリブの治世中、バビロニアはエラム人と同盟を結び、メロダク・バルアダンという名の首長が絶え間なく反乱を起こしたが、これに対してセンナケリブはバビロンを完全に破壊し、反乱を鎮圧した。紀元前689年に城壁と神殿、宮殿が破壊され、その瓦礫はバビロンの南にかつて隣接した海、アラクトゥに廃棄された。宗教の中心地の破壊は多くの人々に衝撃を与えた。その後、センナケリブがニスロク神に祈っている間に彼自身の息子に暗殺されたことは、天罰と見なされた。彼の後継者であるエサルハドンはバビロンの再建を急ぎ、同じ年の一時期、バビロンに滞在した。彼の死後、バビロニアは彼の長男であるアッシリアの王子シャマシュ・シュム・ウキンによって統治された。だが、やがて彼はニネヴェを統治していた自分の弟アッシュルバニパルに対して反乱を起こし、紀元前652年に内戦が始まった。アッシリアと戦うに当たり、シャマシュ・シュム・ウキンは、メソポタミア南部のエラム、ペルシア、カルデア人、ストゥ人、カナン人、メソポタミア南部の砂漠に住むアラブ人などと連合した。

だが、彼は追い込まれ、再度、バビロンはアッシリア軍に包囲された。食糧が枯渇して降伏し、バビロニアの同盟軍は敗北した。アッシュルバニパルは「和解のもてなし」を祝ったが、ベル神(マルドゥク)の「手を取ろう」とはしなかった。カンダラヌという名前のアッシリアの知事が、バビロン市の統治者として任命された。アッシュルバニパルは、ニネヴェにある彼の大規模な図書館に収蔵するために、バビロンから各種の文書を収集した[24]

アッシュルバニパルの死後、アッシリアの王アッシュル・エティル・イラニ、シン・シュム・リシル、シン・シャル・イシュクンの治世中、一連の内戦が起こり、アッシリア帝国は不安定化した。最終的にバビロンは、近東の他の多くの地域と同様に、この混乱に乗じてアッシリアから独立した。その後の諸民族の連合軍によるアッシリア帝国の滅亡もまた、天罰としてみなされた[36]

新バビロニア帝国

[編集]
ネブカドネザル2世の治世の円筒形碑文。悪魔祓いと、ナボポラッサルによるエテメナンキのジッグラト再建に対する敬意を表している[37]
復元したイシュタル門における浅浮き彫りの拡大写真
バビロンの北の入り口であった、青いタイル張りのイシュタル門を再現したもの。愛と戦争の女神イシュタルにちなんで名付けられた。マルドゥク神のシンボルである雄牛と竜で飾られている。

かつてのカルデアの王であったナボポラッサルの下で、バビロンはアッシリアの支配から独立した。そして、メディアの王キュアクサレスと同盟し、キンメリア人も加わって、紀元前612年から紀元前605年にかけてアッシリア帝国を最終的に滅ぼした。こうして、バビロンは新バビロニア帝国(カルデア帝国と呼ばれることもある)の首都となった[38][39][40]

バビロニアの独立が回復して以降、特にナボポラッサルの息子であるネブカドネザル2世(紀元前604-561年)の治世中に、建築活動の新たな時代が始まった[41]。ネブカドネザルは、エテメナンキのジッグラトを含む帝国全土の完全な再建と、バビロンの8つの門の中で最も有名なイシュタル門の建設を命じた。復元されたイシュタル門は、ベルリンのペルガモン博物館に収蔵されている。

ネブカドネザルは、ホームシックとなった妻アミュティスのために、古代世界の七不思議の1つであるバビロンの空中庭園を建設したことでも知られている。ただし、庭園が実在したかどうかは論争の的となっている。ドイツの考古学者ロベルト・コルデウェイは、彼がその基礎を発見したと推測したが、多くの歴史家はその場所について異論を唱えている。イギリスの考古学者ステファニー・ダリーは、空中庭園は実際にはアッシリアの首都ニネヴェにあったと主張している[42]

ネブカドネザルはまた、ユダヤ人のバビロン捕囚と関わっていることでも有名である。これは、アッシリア人が帝国を安定させるために行われていた被征服民の強制移住の一環であった [43] 。旧約聖書によると、彼はソロモンの神殿を破壊し、ユダヤ人をバビロンへと移住させた。このことは、バビロニア年代記にも記録されている[44][45]

ペルシアによるバビロン征服

[編集]

紀元前539年、新バビロニア帝国はオピスの戦いとして知られる会戦により、ペルシアの王キュロス大王に敗れた。だが、バビロンの城壁は破れないと考えられていた。街に入るためには、どこかの城門あるいはユーフラテス川を通るしかなかった。金属製の格子が水中に設置され、敵の侵入を防ぎつつ川が城壁を通過して市内に流れるようになっていた。これに対し、ペルシア人は、川から都市に侵入する計画を立てた。バビロニア国の祝宴が開催されている間に、キュロスの軍隊はユーフラテス川上流を迂回させ、水位を下げてキュロス軍の兵士が街に侵入できるようにした。バビロン市内中心部の人々がこの突破口に気づかぬうちに、ペルシア軍は都市の周辺地域を征服した。このことは、ヘロドトスによって詳しく説明されているほか [26] [46] 、ヘブライ語聖書の一部でも言及されている [47] [48] 。ヘロドトスは、堀、瀝青で固められた非常に高くて広い壁、城壁上の建物と、街に入る百にも及ぶ城門についても書いている。彼はまた、バビロニア人はターバンと香水を身に着け、死者は蜂蜜を塗って埋め、儀式的な売春を行い、その中の3つの部族は魚しか食べないとも書いている。百の門はホメロスを参考にしているとも考えられ、1883年にアーチボルド・ヘンリー・セイスの見解が示された後、ヘロドトスのバビロンの記述は、バビロンへの実際の訪問ではなく、ギリシャの民間伝承に基づくものと見なされてきた。しかし、最近になってステファニー・ダリーなど一部の学者は、ヘロドトスの説明が事実である可能性を検討することを提案している [46] [49]

アケメネス朝軍におけるバビロニア人兵士。西暦前470年頃、クセルクセス1世の墓より。

旧約聖書の歴代誌下第36章によると、後にキュロスは、ユダヤ人を含む捕虜が自分たちの土地に戻ることを許可する布告を出した。キュロスの円筒形碑文に記された文書は、この布告の裏付けとなる証拠として聖書学者によって伝統的に考えられてきたが、文書ではメソポタミアの聖域に触れているだけで、ユダヤ人、エルサレム、またはユダヤについては言及していないため、その解釈について議論の対象となっている。

キュロスとそれに続くダレイオス1世の下で、バビロンは第9の州(南はバビロニア、北はアスラ)の首都となり、教育と科学の進歩の中心地となった。アケメネス朝の下で古代バビロニアの天文学と数学の研究が活発になり、バビロニア人学者が星座の地図を完成させた。バビロンはペルシア帝国の行政首都となり、2世紀以上にわたって名声を維持した。その時代を深く理解するための、多くの重要な考古学的発見がなされている[50][51]

初期のペルシアの王たちは、最も重要な神であるマルドゥクの宗教儀式を維持しようとしたが、ダレイオス3世の治世において、苛酷な課税と多数の戦争の負担によりバビロンの主要な神殿と運河が劣化し、周辺地域が不安定化した。反逆の試みは数多くあり、紀元前522年にはネブカドネザル3世、紀元前521年にはネブカドネザル4世、紀元前482年にはベル・シマノとシャマシュ・エリバが反乱を起こすなどして、バビロニア人の王たちが短期間、独立を取り戻した。しかし、これらの反乱はすぐに鎮圧され、紀元前331年にアレキサンダー大王が入城するまで、バビロンは約2世紀の間、ペルシアの支配下にあった。

ヘレニズム時代

[編集]

紀元前331年10月、アケメネス朝ペルシア帝国の最後の王であるダレイオス3世は、ガウガメラの戦いでマケドニア王アレクサンダーの軍隊に敗北した。

アレクサンダーの下で、バビロンは再び教育と商業の中心地として栄えた。しかし、紀元前323年にネブカドネザルの宮殿でアレクサンダーが死亡した後、彼の帝国はその配下の将軍であるディアドコイに分割され、すぐに数十年にわたる戦いが始まった。絶え間ない混乱は、事実上、バビロンの地位を低下させた。紀元前275年の日付がある粘土板には、バビロンの住民がセレウキアに移住させられ、そこで宮殿と(エサギラ)神殿の建設に従事したと書かれている。この国外追放によりバビロンは重要な都市ではなくなったが、1世紀以上経った後でも、古い聖域で犠牲が捧げられていたという[52]

ペルシアによる再支配

[編集]

バビロンは(アッシリアと同様に)、西暦650年以降まで約9世紀にわたってパルティア帝国とサーサーン朝ペルシアの支配下にあった[要出典]。西暦116年にローマ帝国のトラヤヌス帝によって一時的に占領され、新たに征服されたメソポタミア州の一部となったが、その後継のハドリアヌス帝は、ユーフラテス川よりも東の地域を放棄して後退した [53][54] 。バビロンは独自の文化と人々を維持し、各種のアラム語を話し、バビロンを故郷と呼ぶ人々を輩出し続けた。その文化の例としては、バビロニアのタルムード、グノーシス派のマンダ教、東方典礼カトリック教、そして哲学者マニの宗教などが挙げられる。キリスト教は西暦1世紀 - 2世紀にメソポタミアに広がり、イスラムに征服されるまで、バビロンには東方教会の司教の座があった。バビロンで発掘されたパルティア、サーサーン朝、アラビア時代の硬貨は、その期間、人が定住し続けたことを示している[55]

イスラム教による征服

[編集]

7世紀半ば、拡大するイスラム帝国がメソポタミアに侵攻、定住し、イスラム化の時代が到来した。バビロンは州として解体され、最終的にはアラム語とキリスト教の東方教会は廃れていった。イブン・ハウカル(Ibn Hawqal、10世紀)とアラブの学者ザカリーヤー・カズウィーニー(al-Qazwini、13世紀)は、バビロン(バビル)を小さな村と表現している[56]。ザカリーヤー・カズウィーニーは、休暇中にキリスト教徒とユダヤ人が訪れた「ダニエルのダンジョン」と呼ばれる井戸についても説明している。また、アムラン・イブン・アリ(Amran ibn Ali)の墓神殿(エサギラ神殿の遺跡)はイスラム教徒によって訪問された。

バビロンは、バグダッドからバスラまでの都市で使用するレンガの供給源として、中世のアラビア文字で言及されている[24][57]

多くの場合、ヨーロッパの旅行者はバビロンの場所を見つけることができなかったか、あるいはファルージャをバビロンと間違えた。12世紀の旅行者であるトゥデラのベンヤミンはバビロンについて言及しているが、彼が実際にバビロンに行ったかどうかは不明である。他の人々はバグダッドをバビロンまたはニューバビロンと呼び、この地域で発見したさまざまな建造物をバベルの塔と呼んだ[58]。ピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro della Valle)は17世紀にバビロンのバビルの村を訪れ、瀝青で固められた焼き泥レンガと乾燥泥レンガの両方の存在に気づいている[57][59]

現代

[編集]
発掘されたバビロンの廃墟の遺跡
1905年当時の遺跡の平面図。村落の名前入り。
現代の旅行者の報告から、私はある程度バビロンの遺跡を見つけたと考えていた。だが、実際には発見部分は少なかった。遺跡全体の桁外れの広さについて、あるいはその大きさ、固さ、完全さについてはその一部でさえも想像もつかなかった。付け加えるならば、バビロンの主要な構造の多くの痕跡を、不完全ではあっても識別するべきだと思ったからである。私は考えた。私はこう言うべきであった。「ここに壁があった。そしてその地域の範囲も同様であったに違いない。そこには宮殿が立っていた。そしてこれはほぼ確実にベルスの塔だった。」 私は完全にだまされていた。いくつかの隔絶された丘の代わりに、国全体が建物の痕跡で覆われているのを私は見つけた。いくつかの場所は驚くほど新鮮なレンガの壁で構成され、他の場所ではそのような未知の瓦礫の山がどこまでも続いていただけだった。多様で、広範囲に及び、解決できない混乱に対するいかなる仮説を構築した人をも巻き込むものであった。
『バビロンの遺跡の回想録』(1815年、クローディアス・リッチ) pp.1-2[60]
バビロンのライオン(像)英語版

18世紀になると、ドイツのカールステン・ニーブールやフランスのピエール・ジョゼフ・デ・ボーシャンを始めとして、バビロンを訪れる者が増え、その緯度が測定されるようになった。1792年にボーシャンの回想録が英語に翻訳されて公開されると、イギリス東インド会社はバグダッドとバスラの代理店にメソポタミアの遺物を取得してロンドンに輸送するよう指示した[61]

1905年までに、バビロンにはいくつかの村があった。そのうちの1つはクワレシュ(Qwaresh)で、古代の都市の内壁内に、約200世帯があった。ドイツ東洋協会の発掘調査(1899-1917)中に労働者を必要としたため、村は大きくなっていった。

発掘と研究

[編集]

バグダッドのイギリス東インド会社で働いていたクローディアス・リッチ(Claudius Rich)は、1811年から1812年にかけて、そして1817年に再度、バビロンを発掘した[62][63]。ロバート・ミグナン船長(Captain Robert Mignan)は、1827年にこの遺跡の簡易調査を実施し、1829年にいくつかの村の位置を含むバビロンの地図を完成させた[64][65]。ウィリアム・ロフタス(William Loftus)は1849年にここを訪れた[66]。オースティン・ヘンリー・レイヤードは、この遺跡が放棄される以前の1850年に短期間訪れ、その間にいくつかの調査を実施した[67][68]

フレネルの調査隊が運んでいた何百箱もの発掘品が失われた、1855年のアル・クルナ(Al Qurnah)の災厄の場所
1665年にチャールズ・ルブランが制作した絵画「アレクサンドロスのバビロンへの入場」。ヘレニズム以前の建築様式により描かれたバビロンの街に、抵抗を受けることなく入場するアレクサンドロス大王を描いている。

フルゲンス・フレネル(Fulgence Fresnel)、ジュール・オペール、フェリックス・トーマス(Felix Thomas)は、1852年から1854年にかけてバビロンを積極的に発掘した[69][70]。しかし、1855年5月、ティグリス川で輸送船と4隻の筏が沈没したクルナの災厄により、彼らの成果の多くが失われた[71]。アル・クルナ付近でティグリス川の海賊に襲われたとき、彼らはさまざまな発掘作業で得た人工遺物を入れた200個以上の箱を運んでいた[72][73]。1856年5月、オスマン帝国当局とバグダッドの英国公邸の支援を受けて回収作業が行われ、同月中にル・アーブル行きの船に80箱相当の貨物が積み込まれた[71][74]。だが、フレネルの作業で得た発掘品のほとんどは、フランスに届くことはなかった[69][71][72]。1971年から1972年にかけて日本のチームが行った作業を含め、ティグリス川から失われたこれらの発掘品を回収する試みは、失敗に終わっている[74]

イラクのバビロンの遺跡にある、かつての行列通りのタイル。

ヘンリー・ローリンソンとジョージ・スミスは、1854年にバビロンで短期間、活動した。次の発掘は、大英博物館の依頼を受け、ホルムズ・ラッサムによって行わた。作業は1879年に始まり1882年まで続いたが、発掘現場で広範囲に略奪が起きたため、彼らは作業を急いだ。人工遺物を探すために、ラッサムは工業用の掘削機器を使用して大量の楔形文字の粘土板などを回収したが、当時としては一般的だったこの熱心な発掘方法は、考古学的に重大な損害を及ぼすものであった[75][76]。また、ラッサムの発掘が始まる前の1876 年には、既に多くの粘土板が市場に出回るようになっていた[24]

ムシュフシュ(Mušḫuššu。シラッシュともいう。霊獣の一種) とオーロックス(牛の一種)が行列通りの両側に描かれている。イラクのバビロンの遺跡。

ロバート・コルデウェイが率いるドイツ東洋協会のチームは、バビロンで最初の科学的な考古学発掘調査を行った。この発掘作業は1899年から1917年まで、毎日行われた。発掘作業の主な対象は、マルドゥク神殿とそこに至る行列の道、そして城壁だった [77][78][79][80][81][82]。イシュタル門の破片と回収された数百の粘土板を含む発掘品はドイツに輸送され、コルデウェイの同僚であったウォルター・アンドレーがそれらを再構築してベルリン中東博物館に展示した[83][84]。ドイツの考古学者は1917年に英国軍が迫る前に待避し、その後、またしても多くの遺物が行方不明になった[24]

ドイツ考古学研究所によるさらなる発掘作業としては、第二次世界大戦後の1956年にハインリヒ・J・レンツェン(Heinrich J. Lenzen)が、1962年にハンスイェルク・シュミット(Hansjorg Schmid)が率いるチームが行ったものがある。レンツェンの作業は主にヘレニズム劇場を扱っており、シュミットの作業はエテメナンキの神殿ジッグラトに焦点を当てていた[85]

この遺跡は1974年に、イタリア・トリノの中東・アジア考古学研究・発掘センター(Turin Centre for Archaeological Research and Excavations in the Middle East and Asia)と、イラク・イタリア考古科学協会(Iraqi-Italian Institute of Archaeological Sciences)によって発掘された[86][87]。発掘作業の焦点は、ドイツが昔に得たデータを再調査することによって、数々の疑問点を解決することにあった。1987年から1989年にかけての追加調査は、バビロンのシュアンナ市区にあるイシャラ神殿とニヌルタ神殿の周辺に集中していた[88][89]

バビロンの修復作業の間、イラク国家古代遺産機構(Iraqi State Organization for Antiquities and Heritage)は広範な調査、発掘、清掃を行ったが、これらの考古学的調査結果の公開範囲は限られていた[90][91]。実際、現代の発掘調査で得られたことが知られている粘土板のほとんどは、未公開のままである[24]

イラク共和国

[編集]

バビロンの遺跡は、1921年に近代イラク国家が誕生して以来、イラクの文化的資産となっている。この遺跡は、イギリスの管理下にあるイラク王国によって公式に保護され、発掘された。そのイラク王国は後にイラクのハシェミット王国となり、その後はアラブ連邦、イラク共和国、バース党 イラク (正式にはイラク共和国とも呼ばれる)、およびイラク共和国と続いた。バビロニアに関するテーマは、イラクのはがきや切手に定期的に登場する。1960年代には、イシュタル門のレプリカとニンマク神殿(Ninmakh Temple)が遺跡現場に再建された[92]

1978年2月14 日、サダム・フセイン率いるイラクのバース党政府は、「バビロンの考古学的修復プロジェクト」を開始した。このプロジェクトの目的は、廃墟の上に古代都市の主要構造物を再現することにあった。これらの構造物は、250の部屋、5つの中庭、30メートルの高さの入口アーチを備えたネブカドネザルの南宮殿が含まれていた。このプロジェクトでは、行列の道、バビロンのライオン、ヘレニズム時代に建設された円形劇場も修復された。1982年、イラク政府は、バビロンの象徴的なデザインを施した7枚の硬貨のセットを鋳造した。1987年9月にバビロン国際フェスティバルが開催され、その後、2002年まで (湾岸戦争があった1990年と1991年を除く) 毎年開催され、この成果が展示された。空中庭園と大ジッグラトの再建も提案されていたが、それは実現しなかった[92][93][94]

フセインは、遺跡の入り口に自分とネブカドネザルの肖像画を設置し、ネブカドネザルに倣って多くのレンガに自分の名前を刻んだ。よくある碑文の例としては、「これはイラクを美化するために、ネブカドネザルの息子サダム・フセインによって建てられた」というものがある。これらのレンガは、フセインの失脚後、収集品として人気を博した[95]。同様のプロジェクトがニネベ、ニムルド、アッシュル、ハトラで実施され、アラブの偉業の素晴らしさを宣伝した[96]

1980年代、サダム・フセインはクワレシュ(Qwaresh)の村の住民を立ち退かせ、完全に排除した[11][97]。後に彼は、古い遺跡の上のサダム・ヒルと呼ばれる地域に、ジグラットの形を模した、近代的な宮殿を建設した。フセインは、2003年にバビロンにケーブルカーを建設することを計画していたが、2003年のイラク侵攻により、この計画は中止された。

米国とポーランドの占領下

[編集]
バビロンの保全に関するワールド・モニュメント財団のビデオ

2003年のイラク侵攻後、バビロン周辺の地域は、2003年9月にポーランド軍に引き渡されるまでの間、米軍の支配下に置かれた[98]。第1海兵遠征軍のジェームズ・T・コンウェイ将軍の指揮下にあった米軍は、イラク戦争中に古代バビロニアの遺跡にヘリポートやその他の施設を備えた軍事基地「キャンプ・アルファ」を建設したことで批判された。米軍はこの場所をしばらく占領しており、考古学的記録に取り返しのつかない損害を与えている。大英博物館の近東部門のレポートにおいて、ジョン・カーティス博士は、ヘリコプターの着陸エリアと大型車両の駐車場を建設するために遺跡の一部がどのように整地にされたかを説明した。占領軍について、カーティスは次のように書いている。

彼らは、古代からの最も有名なモニュメントであるイシュタル門に、大きな損害を与えた。・・・米軍の車両が2600年前のレンガ舗装を押しつぶし、考古学的な破片が遺跡全体に散らばり、12以上の塹壕が古代の堆積物がある場所で掘られ、軍の土木事業が未来の世代の科学者のための遺跡を破壊している[99]

米軍のスポークスマンは、エンジニアリング作戦は「バビロン博物館長」と話し合ったものであったと主張した[100]。イラク国家遺産・遺物局長のドニー・ジョージ氏は、「この混乱を解決するには数十年はかかるだろう」と述べ、ポーランド軍がこの場所に「ひどい損害」を与えていると批判した[101][102]。2004年に、ポーランドは都市をイラクの支配下に置くことを決定し、「バビロン考古学遺跡の保存状況に関する報告書」という題名の報告書の作成を命じた[93]。その報告書は2004年12月11日から13日にかけて開催された会議で発表され、2005年、遺跡はイラク共和国の文化省に引き渡された[98]

2006年4月、第1海兵遠征軍の元参謀総長であるジョン・コールマン大佐は、彼の指揮下にある軍人が与えた損傷について、謝罪を申し出た。しかし、同時に彼は、米国の存在により、他の略奪者による更に大きな損害を抑止したと主張した[103]。2006年4月に発行された記事によると、国連職員とイラクの指導者は、バビロンを文化センターにする計画を立てている[104][105]

なお、発掘品のレプリカと地元の地図、レポートを収蔵していた博物館2つと図書館1つが襲撃され、破壊されている[106]

Panoramic view of ruins in Babylon photographed in 2005
パノラマによるバビロンの遺跡風景。2005年撮影。

現在

[編集]

2009年5月、バビール州政府は観光客向けに遺跡の開放を再開し、2017年には35,000人以上の観光客が訪れた[8]。石油パイプラインが、都市の外壁を貫通している[9][107]。2019年7月5日には、バビロンの遺跡はユネスコの世界遺産に登録された[7]

何千人もの人々がバビロンで、古代の外側の城壁周辺に住んでいる。そしてその周辺のコミュニティは、「建設を制限する法律があるにもかかわらず、コンパクトで密集した集落から広大な郊外へと急速に発展している」[108][11]。現代の村には、西ズウェア(Zwair West)、シンジャー村(Sinjar Village)、クワレシュ(Qwaresh)、アル・ジムジマー(Al-Jimjmah)があり、そのうち最初の2つが経済的に豊かである[109]。ほとんどの住民は、主に毎日の賃金収入に依存しているか、アル・ヒッラー(Al-Hillah)で政府の仕事に就いている。ごくわずかにナツメヤシ、柑橘類、イチジク、家畜用の飼料、限られた換金作物を栽培している人がいるが、耕作物からの収入だけでは家族を養うことはできない。シーア派とスンニ派、両方のイスラム教徒がシンジャー村に住んでいて、両派のモスクがある[11]

SBAH(The State Board of Antiquities and Heritage:イラク国立考古学遺産委員会)は、考古学的遺跡の保護を担当する主要機関である。彼らは考古学遺産警察の支援を受け、そこに常駐している。ワールド・モニュメント財団も研究と保全に関わっている。SBAHの州監察本部は、東側の古代の内城壁の境界内にあり、数人の職員とその家族がこの地域の補助金付きの住宅に住んでいる。

文化的な重要性

[編集]
バビロンの滅亡を描いた、1493年に作られたニュルンベルク年代記の木版画
「バビロンの城壁と、ベル(あるいはバベル)の神殿」 19世紀のイラストレーター、ウィリアム・シンプソンによる。初期の考古学調査の影響を受けている。
映画『イントレランス』のバビロンのセット

メソポタミアで現代の考古学的発掘が行われる以前は、バビロンの外観は謎で、西洋の芸術家は通常、古代エジプト、古典ギリシャ、現代のオスマン文化を組み合わせて 想像していた[110]

バビロンの歴史的重要性と聖書での言及により、さまざまな言語において「バビロン」という言葉は、大きく賑やかで多様な都市を一般的に表す単語になっていった。その例としては、以下のようなものが含まれている。

  • バビロンは、ラスタファリ運動の概念としてレゲエ音楽で使用され、唯物論的資本主義の世界、またはあらゆる形態の帝国主義の悪を示している。バビロンは世界中の人々、特にアフリカ系の人々を積極的に搾取し、抑圧しようとしていると考えられている。ラスタファリ運動に参加する人々は、大麻が心を真実に開くから、バビロンがこの神聖なハーブの喫煙を禁止しようとしていると信じている。[要出典]
  • 独自の聖書伝説を持つフリーメーソンは、伝統的にバビロンをその発祥の地であり、科学と知識の楽園と考えていた[111]
  • バビロン 5 - 未来の宇宙ステーションを舞台にしたSFシリーズで、さまざまな文化間の交易と外交の中心として機能している。多くの物語は、異なる社会や文化が団結し、違いを尊重し、偏見や疑いを持って互いを見たり争ったりするのではなく、お互いから学ぶというテーマに焦点を当てている。[要出典]
  • バビロン A.D. は、数十年後のニューヨーク市が舞台である。
  • 『バビロン』はレディー・ガガの曲で、ゴシップについて議論するために古代聖書のテーマに言及している。
  • 映画『エターナルズ』(2021)では、バビロンを最大限に描写し、エターナルズによって保護され、その発展が支援されている様子が描かれている。
  • 『時の眼』(タイム・オデッセイ1)Time's Eye (2003年、スティーヴン・バクスターとアーサー・C・クラークのSF小説) ISBN 4152087838
  • 『火星の挽歌』(タイム・オデッセイ3)FIRSTBORN (2008年(邦訳は2011年)続編) ISBN 4152092599
  • イントレランス

聖書中の物語

[編集]
17世紀のヨーロッパ人が描いたバビロン想像図。左側にバベルの塔が描かれている

旧約聖書創世記ではバベルと表記され[112]バベルの塔の伝承にて混乱(バラル)を語源とすると伝える。創世記10章第8節によると、ノアの子ハムの子孫である地上で最初の勇士ニムロド(ニムロデ)の王国の主な町が、シンアルの地にあったバベル、ウルクアッカドそしておそらくカルネであったという(なお、「カルネ(Calneh)」は現在、固有名詞としてではなく、「それらすべて」という意味で翻訳されることがある)。また、創世記11章には別の話も載っている。都市と塔、すなわちバベルの塔を建設するためにシンアルの地に移住した、単独の言語を話す人類について説明している。神は、人々の言葉を混乱させて、同じ言語でお互いを理解できないようにし、人類を地球全体に散らばらせることで、塔の建設を中止させた。ここで東方からシンアルの地へ移住した人々による都市バベル及びバベルの塔の建設が述べられているため、この建設事業をニムロドに帰する神学解釈がある。

ユダの王ヒゼキヤが病気になった後、バビロンの王バラダンは、彼に手紙と贈り物を送った。ヒゼキヤはすべての宝物を代表団に見せた。預言者イザヤはヒゼキヤにこう言った。「見よ、あなたの家にあるすべてのものと、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものがバビロンに運ばれ、何も残らない日が来る」[113]。約 200年後、バビロンの王ネブカドネザルがユダに侵入してエルサレムを包囲し、ユダヤ人をバビロンに移送した[114]

預言者ダニエルは人生の大半をバビロンで過ごした。ダニエルがネブカドネザルの夢を解釈したことで、彼はダニエルをバビロン州全体の長官に任命した。何年も後、ベルシャザルは宴会を開き、手の指が現れて壁に文字を書いた。ダニエルは文字を解釈するために呼ばれ、彼は、神がベルシャザルの王国に終止符を打ったと説明した。その夜にベルシャザルは殺され、メディア人ダレイオスが王国を引き継いだ[115]

イザヤ書では、バビロンについて「神がソドムとゴモラを覆されたときのようになる。もはや、だれもそこに宿ることはなく代々にわたってだれも住むことはない。アラブ人でさえ、そこには天幕を張らず、羊飼いも、群れを休ませない」とあるほか[116]、エレミヤ書では、バビロンに「住む者は、もはや永久にない」、「そこには、人ひとり住まず、人が宿ることはなくなるであろう」、そして「人の子ひとり通らぬ所となる」と述べている[117]。旧約聖書では、このほかにも様々な箇所で、バビロン、エドム、ボズラ、モアブ、ツロ、ハツォル、アンモンの息子たちの領土はすべて、ソドムとゴモラのようになるか、永遠に無人になると予言している[118]

新バビロニア王国時代のバビロンと周辺の数箇所の都市には、滅ぼされたユダ王国の指導者層が強制移住(バビロン捕囚)させられ、この事件がそれまで神殿宗教であったヤハヴェ信仰ユダヤ教に脱皮成長させる大きな契機となり、ひいてはユダヤ人の民族形成史上、大きな役割を果たした。ユダヤ人のバビロンへの反感は、詩編137で「娘バビロン」への神の復讐が予言されることなどに表れている。

また、イラクにおけるユダヤ人コミュニティーの起源ともなったが、このようにユダヤ教の成立過程に深く関わったバビロンは、ユダヤ教やその系譜を引くキリスト教において正義の対抗概念のイメージであり、さらにイザヤ書エレミヤ書の預言と新約聖書のヨハネの黙示録ヨハネへの啓示啓示の書)の故事から、ヨーロッパなどのキリスト教文化圏においては、退廃した都市の象徴(大淫婦バビロン大娼婦バビロン)、さらには、富と悪徳で栄える資本主義、偶像崇拝の象徴として扱われることが多い。また、預言の中では、バビロンの王たちとルシファーが象徴的に結びつけられることがある。ネブカドネザル2世はナボニドゥスと混同されることもあり、聖書の物語における第一の支配者として登場する[119]

キリスト教聖書の黙示録では、バビロンが主要な政治的中心地ではなくなってから何世紀も経ったバビロンについて言及している。この都市は、7つの頭と10本の角を持つ緋色の獣に乗って、義人の血に酔った「バビロンの娼婦」に擬人化されている。黙示録的文学の学者の中には、この新約聖書の「バビロン」がローマ帝国の侮蔑表現であると信じている者もいる[120]。他の学者は、黙示録のバビロンには、紀元1世紀当時のローマ帝国を超えた象徴的な意味があると示唆している[121]

何人かの聖書預言学者、特にチャック・ミスラーは、イザヤ書の第13章 - 第14章、エレミヤ書の第50章 - 第51章、そしておそらく黙示録の第17章 - 第18章に詳細に記述されている「バビロンの破滅」は、文字どおりの将来の破滅を指していると主張している。ミスラーは、イザヤとエレミヤが預言したようには、バビロンはまだ完全に破壊されていないと書いている。紀元前539年にペルシア人がバビロンを確保した際は、戦うことなくこれを占領したからである。

美術におけるバビロン

[編集]

世界遺産

[編集]

バビロンは1983年に登録延期となった後、2019年に正式登録された。

登録基準

[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 楔形文字𒆍𒀭𒊏𒆠は、KA2.DINGIR.RAKIと翻字され、シュメール語の「ka-diĝirra」(神の門)を表す。アッカド語はその翻訳借用
  2. ^ アムル人の起源はメソポタミアではなく、レバント北部からやって来た半遊牧民のカナン北西部セム系言語を話す人々である。紀元前21世紀から20世紀にかけて彼らはメソポタミアに定着していった。
  3. ^ バビロンの略奪を含む、紀元前2千年紀の出来事の年代測定に関する議論については、古代オリエントの編年を参照のこと。

出典

[編集]
  1. ^ a b c Edwards, Gadd & Hammond 1981.
  2. ^ Chandler 1987.
  3. ^ Mieroop 1997, p. 95.
  4. ^ Boiy 2004, p. 233.
  5. ^ UNESCO 2018.
  6. ^ Seymour 2006, p. 140-142.
  7. ^ a b Davis 2019.
  8. ^ a b Fordham 2021.
  9. ^ a b c CNN 2013.
  10. ^ a b Arraf 2021.
  11. ^ a b c d UNESCO 2020.
  12. ^ Sayce 1872, p. 5.
  13. ^ a b Sayce 1878, p. 182.
  14. ^ Budge 1880, pp. 135–136.
  15. ^ Edzard 2004, p. 121.
  16. ^ Jakob-Rost & Marzahn 1990, p. 2.
  17. ^ Gelb 1994, pp. 266–269.
  18. ^ a b Lambert 2011, pp. 71–76.
  19. ^ 創世記第11章第9節
  20. ^ Magnusson 1977, pp. 198–199.
  21. ^ Online Etymology Dictionary "babble"オンライン 語源辞典 「babble」の項より)
  22. ^ Dalley 1994, pp. 45–58.
  23. ^ a b Dalley 2008, pp. 25–33.
  24. ^ a b c d e f g h Pedersen 2011, pp. 47–67.
  25. ^ Seymour 2006, pp. 140–142.
  26. ^ a b MacGinnis 1986, p. 67-86.
  27. ^ Vedeler 2006, pp. 7–8.
  28. ^ Sayce 1888, p. 11.
  29. ^ N.H. vii. 57
  30. ^ Rawlinson 2002, pp. 526–527.
  31. ^ Boer 2018, pp. 53–86.
  32. ^ Werr 1988.
  33. ^ Vedeler 2006, pp. 8–15 しかし、この後の伝承はほぼ確実に、スム・アブムを取り巻く実際の出来事の単純化または作り直しである。彼は、バビロン第1王朝の他の王たちの実際の祖先とは見なされなかった(Edzard 1957:122)。実際には、スム・アブムとバビロンの関係はもっと複雑である。スム・アブムの年号の多くが、バビロンの王であったことが確かであるスム・ラ・エルの年号と同一または実質的に同一であることが、長い間指摘されてきた。ゴッデーリス(Goddeeris) (2002:319-320) は、これらの類似点を次のようにまとめている。 * スム・アブムの治世第1年及び第2年/スム・ラ・エルの治世第5年及び第6年:バビロンの城壁の建設 * スム・アブムの治世第9年/スム・ラ・エルの"b"年:ディバト(Dilbat)の城壁の建設 * スム・アブムの治世第13年及び第14年/スム・ラ・エルの治世第20年及び第21年:カザル(Kazallu)の破壊と奪取
  34. ^ Durant 2014.
  35. ^ Aldred 1970, pp. 105–116.
  36. ^ Albert Houtum-Schindler英語版, "Babylon," Encyclopædia Britannica, 11th ed.
    (ブリタニカ百科事典第11版、『バビロン』(著:アルベルト・ホウトゥム・シンドラー))
  37. ^ Spar & Jursa 2014, pp. 288–290.
  38. ^ Bradford 2001, pp. 47–48.
  39. ^ Curtis 2007, p. 122.
  40. ^ Wolfram 1994, p. 60.
  41. ^ Saggs 2000, p. 165.
  42. ^ Dalley 2013.
  43. ^ Seymour 2006, pp. 88–89 「帝国の辺境で反乱を防ぐことは、アッシリアの王たちにとって大きな関心事であり、これを達成するために開発された政策の一つに大規模な国外追放があった。新しい領土が征服された時、または臣下による反乱が鎮圧された時、問題のある場所での帝国の支配力を強化するために、多くの先住民族を帝国の中心部へ移動させてその地域から排除することで、反逆的な人々を効果的に分散させ、将来の反乱の可能性を減らした。 この政策は効果的であり、紀元前539年にキュロスがバビロンを征服するまで、新アッシリア帝国と新バビロニア帝国全体において実施され続けた。このような移民人口の大半は奴隷ではなく (山内 2002年、p.365)、一部は帝国の中心で高い地位にまで上がった (王室の信頼できる地位にまで上がった、聖書のダニエルの経歴は、これを反映している可能性がある)。」
  44. ^ British Museum
  45. ^ Lendering 2006.
  46. ^ a b 『歴史』(著:ヘロドトス)第1巻 第178章 - 第200章
  47. ^ イザヤ書第44章第27節
  48. ^ エレミヤ書第50章-第51章
  49. ^ Seymour 2006, pp. 107–115.
  50. ^ British Museum 2011.
  51. ^ Hooker 1999.
  52. ^ Sayce 1911, p. 98
  53. ^ Bennett 1997, pp. 206–207.
  54. ^ Mommsen, Dickson & Haverfield 2004, p. 72.
  55. ^ Radner 2020, p. 158.
  56. ^ Seymour 2006, p. 148.
  57. ^ a b Reade 2009, pp. 13–30.
  58. ^ Seymour 2006, pp. 148–151.
  59. ^ Radner 2020, p. 21.
  60. ^ Seymour 2006, p. 175.
  61. ^ Seymour 2006, pp. 169–173.
  62. ^ Rich 1815.
  63. ^ Rich 1818.
  64. ^ Mignan 1829.
  65. ^ World Monuments Fund 2015.
  66. ^ Loftus 1857.
  67. ^ Layard 1853.
  68. ^ Hilprecht 1903.
  69. ^ a b Pillet 1922.
  70. ^ Oppert 1863.
  71. ^ a b c Larsen 1996, pp. 344–349, 350–353.
  72. ^ a b Potts 2021, pp. 235–244.
  73. ^ Pfister 2021.
  74. ^ a b Egami 1972, pp. 1–45.
  75. ^ Rassam 1897.
  76. ^ Reade 1993, pp. 39–62.
  77. ^ Koldewey 1913" Up to the present time only about half the work has been accomplished, although since it began we have worked daily, both summer and winter, with from 200 to 250 workmen"
    (「現在までで作業は半分ほどしか完了していませんが、作業が始まって以来、夏も冬も毎日、200人から250人の作業員が働いています。」)
  78. ^ Koldewey 1911, pp. 37–49.
  79. ^ Koldewey 1918.
  80. ^ Wetzel 1930, pp. 1–83.
  81. ^ Wetzel & Weissbach 1938, pp. 1–36.
  82. ^ Wetzel, Schmidt & Mallwitz 1957.
  83. ^ Garcia 2013.
  84. ^ Bilsel 2012, pp. 163–183.
  85. ^ Schmid 1995.
  86. ^ CRAST 2017.
  87. ^ Bergamini 1977, pp. 111–152.
  88. ^ Bergamini 1988, pp. 5–17.
  89. ^ Bergamini 1990, pp. 5–12.
  90. ^ Cambridge University 1983, pp. 199–224.
  91. ^ Al-Rawi 1985, pp. 1–13.
  92. ^ a b Curtis 2011, pp. 3–18.
  93. ^ a b Curtis 2009, pp. 213–220.
  94. ^ Lewis 1989.
  95. ^ ABC 2003.
  96. ^ Rothfield 2009.
  97. ^ Ditmars 2019.
  98. ^ a b McCarthy 2005.
  99. ^ Bajjaly 2005.
  100. ^ Leeman 2005.
  101. ^ Marozzi 2016.
  102. ^ World Heritage Alert 2006.
  103. ^ Cornwell 2006.
  104. ^ Gettleman 2006.
  105. ^ McBride 2005.
  106. ^ Musa 2011, pp. 19–46.
  107. ^ Myers 2009.
  108. ^ World Monuments Fund (2015). Babylon Site Management Plan. http://archive.org/details/babylon-site-management-plan 
  109. ^ UNESCO 2019.
  110. ^ Liverani 2016「実際に知られざる都市を視覚化するために採用された方法は、古典 (ギリシャ) とエジプトの要素の混合であり、2階以上で構成された長い柱廊と ― それは、メソポタミアの都市の未焼成のレンガ造りの建築物とはまったく異質であった ― 多くのオベリスクと奇妙なスフィンクスを備えていた。現代において遠い古代の要素を付け加えるために、多くの場合、この混合物に積極的に、ドームや光塔などのオスマン建築の様式が追加された。これは、不変の近東を描写するのに明らかに役立った。」
  111. ^ Mackey & 1898/1906, p. 61.
  112. ^ 創世記第10章第10節
  113. ^ 列王記下第20章第12-19節、イザヤ書第39章
  114. ^ 列王記下第24-25章、歴代誌第36章、エレミヤ書第39章第1-10節
  115. ^ ダニエル書第5章
  116. ^ イザヤ書第13章第19-20節
  117. ^ エレミヤ書第50-51章
  118. ^ イザヤ書第13章第19-20節、エレミヤ書第49章第17-18節、エレミヤ書第49章第13節、ゼファニヤ書第2章第9節、エゼキエル書第26章第14節、エゼキエル書第26章第19-21節、エレミヤ書第49章第33節
  119. ^ Seymour 2006, pp. 91–101.
  120. ^ Tenney 1985, p. 383.
  121. ^ Koester 2014, pp. 506, 684.

参考文献

[編集]
  • Aldred, Cyril (1970). “The Foreign Gifts Offered to Pharaoh”. The Journal of Egyptian Archaeology (Egypt Exploration Society) 56: 105-116. 
    (『エジプト考古学誌』第56号(1970年、エジプト探査協会)p.105-116に収録されている『外国からのファラオへの贈り物』(著:シリル・アルドレッド))
  • Al-Rawi, Farouk N. H. (1985). “Nabopolassar's Restoration Work on the Wall "Imgur-Enlil" at Babylon”. Iraq (Cambridge University Press) 47: 1-13. 
    (ケンブリッジ大学年報『イラク』第47号(1985年)pp.1 - 13に収録されている『ナボポラッサルによるバビロンの「イムグル・エンリル」城壁の修復』(著:ファールーク・N・H・アル・ラウィ))
  • Bennett, Julian (1997). Trajan: Optimus Princeps. Routledge 
    (『トラヤヌス帝』(著:ジュリアン・ベネット、1997年、ラウトリッジ出版(英国)))
  • Bergamini, Giovanni (1977). “Levels of Babylon Reconsidered”. Mesopotamia (Università di Torino) 12: 111-152. 
    (『メソポタミア』(イタリアのトリノ大学の考古学術誌)第12号(1977年)p.111-152に掲載されている『バビロンの高さ再考』(著:ジョヴァンニ・ベルガミーニ)
  • Bergamini, Giovanni (1988). “Excavations in Shu-anna Babylon 1987”. Mesopotamia (Università di Torino) 23: 5-17. 
    (『メソポタミア』(イタリアのトリノ大学の考古学術誌)第23号(1988年)p.5-17に掲載されている『1987年におけるバビロンのシュ・アンナの発掘』(著:ジョヴァンニ・ベルガミーニ)
  • Bergamini, Giovanni (1990). “Preliminary report on the 1988-1989 operations at Babylon Shu-Anna”. Mesopotamia (Università di Torino) 25: 5-12. 
    (『メソポタミア』(イタリアのトリノ大学の考古学術誌)第25号(1990年)p.5-12に掲載されている『1988年 - 1989年におけるバビロンのシュ・アンナの発掘に関する速報』(著:ジョヴァンニ・ベルガミーニ)
  • Bilsel, Can (2012). Antiquity on Display: Regimes of the Authentic in Berlin's Pergamon Museum. Oxford University Press 
    (『古代遺物の展示:ペルガモン博物館における本物の管理体制』(著:カン・ビルセル、2012年、オックスフォード大学出版))
  • Boer, Rients de (2018). “Beginnings of Old Babylonian Babylon: Sumu-Abum and Sumu-La-El.”. Journal of Cuneiform Studies (The University of Chicago Press on behalf of The American Society of Overseas Research) 70: 53-86. 
    (『楔形文字研究誌』第70号(2018年、シカゴ大学出版)pp.53 - 86に収録されている『古バビロニアのバビロンの始まり:スム・アブムとスム・ラ・エル』(著:リンツ・デ・ブール))
  • Boiy, Tom (2004). “Late Achaemenid and Hellenistic Babylon” (英語). Orientalia Lovaniensia Analecta (Leuven: Peeters Publishers) 136. 
    (『アケメネス朝後期及びヘレニズム時代のバビロン』(著:トム・ボイ、東洋ルーバンシア著作集 第136号、ピーターズ出版(ベルギー王国ルーバン)))
  • Bradford, Alfred S. (2001). With Arrow, Sword, and Spear: A History of Warfare in the Ancient World. Greenwood Publishing Group. https://books.google.com/books?id=dY86rHCI1I8C 
    (『矢、剣、槍:古代世界の戦争史』(著:アルフレッド・S・ブラッドフォード、2001年、グリーンウッド出版(米国)))
  • Budge, Ernest A. (1880) (英語). The history of Esarhaddon (son of Sennacherib) King of Assyria, B.C. 681-668. Trübner & Co. 
    (『センナケリブの息子、アッシリア王エサルハドンの歴史 紀元前681年 - 前668年』(ウォーリス・バッジ、1880年、トリュブナー出版(英国)))
  • Cambridge University (1983). “Excavations in Iraq 1981-1982”. Iraq (Cambridge University Press) 45 (2): 199-224. 
    (ケンブリッジ大学年報『イラク』第45号(1983年)第2分冊 pp.199 - 224に収録されている『イラクにおける1981年 - 1982年の発掘』)
  • Cancik-Kirschbaum, Eva; Ess, Margarete van; Marzahn, Joachim (2011). Babylon: Wissenskultur in Orient und Okzident. De Gruyter 
    (『バビロン:東洋と西洋の知識文化』(編:エヴァ・カンツィク・キルシュバウム、マルガレーテ・フォン・エス、ヨアヒム・マルツァーン、2011年、デ・グルーター出版(ドイツ)))
  • Chandler, Tertius (1987) (英語). Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census. St. David's University Press 
    (『4000年の都市成長:歴史センサス』(著:ターシャス・チャンドラー、セント・デーヴィッド大学出版、1987年)歴史上の推定都市人口も参照。
  • Curtis, Adrian (2007) (英語). Oxford Bible Atlas. Oxford University Press 
    (『オックスフォード聖書地図』(著:アドリアン・カーティス、2007年、オックスフォード大学出版))
  • Curtis, John (2009). “Disappearance and rediscovery” (英語). Babylon. Oxford University Press. pp. 213-220 
    (『バビロン』(編:アーヴィング・レオナード・フィンケル、ミカエル・ジョン・シーモア、2009年、オックスフォード大学出版)p.213-220に収録されている『今日のバビロン遺跡』(著:ジョン・カーティス))
  • Curtis, John (2011). “The Present Condition of Babylon” (英語). Babylon : Wissenskultur in Orient und Okzident/ Science Culture Between Orient and Occident. De Gruyter. pp. 3-18 
    (『バビロン - 東洋と西洋における科学の文化』(編:エヴァ・キャンシキシュバウム、マルガリーテ・ファン・エス、ヨアヒム・マルツァーン、2011年、デ・グルーター出版(ドイツ))のp.3-18に収録されている、『バビロンの現在』(著:ジョン・カーティス))
  • Dalley, Stephanie (1994). “Nineveh, Babylon and the Hanging Gardens: Cuneiform and Classical Sources Reconciled”. Iraq (Cambridge University Press) 56: 45-58. 
    (『ニネヴェ、バビロンと空中庭園:楔形文字と古典資料の一致』(ステファニー・ダリー。ケンブリッジ大学年報「イラク」第56号(1994年)に収録))
  • Dalley, Stephanie (2008). “Babylon as a name for other cities including Nineveh” (英語). Proceedings of the 51st Rencontre Assyriologique Internationale. The Oriental Institute of the University of Chicago 
    (『第51回 国際アッシリア学会議事録(2005年7月18-22日)』(シカゴ大学出版「古代オリエント文明学」シリーズ第62巻)p.25-33収録の『ニネヴェを含む、他の都市の名前としてのバビロン』(ステファニー・ダリー))
  • Dalley, Stephanie (2013) (英語). The Mystery of the Hanging Garden of Babylon: an elusive World Wonder traced. Oxford University Press 
    (『バビロンの空中庭園の謎:“世界の不思議”の謎を追う』(ステファニー・ダリー、2013年、オックスフォード大学出版))
  • Durant, Will (2014) (英語). The Complete Story of Civilization. Simon & Schuster. https://books.google.co.jp/books?id=CfGPAgAAQBAJ&pg=PT235&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
    (『文明全史』(著:ウィル・デュラン、2014年、サイモン・アンド・シュスター社(米国)))
  • Edwards, I. E. S.; Gadd, C. J.; Hammond, N. G. L. (1981). Prolegomena and Prehistory. The Cambridge Ancient History. 1 Part 1. Cambridge University Press. オリジナルの2020-05-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200519011417/https://books.google.com/books?id=ZTsRnQEACAAJ 2019年8月18日閲覧。 
    (『ケンブリッジ古代史 第1巻 第1部 序文・先史時代』(編:I・E・S・エドワーズ、C・J・ガッドほか、1981年、ケンブリッジ大学出版))
  • Edzard, Dietz Otto (2004) (ドイツ語). Geschichte Mesopotamiens. Von den Sumerern bis zu Alexander dem Großen. Beck, München 
    (『メソポタミアの歴史 シュメール人からアレキサンダー大王まで』(著:ディーツ・オット・エドザード、2004年、ベック出版(ドイツ・ミュンヘン)))
  • Egami, Namio (1972). “The Report of The Japan Mission For The Survey of Under-Water Antiquities At Qurnah: The First Season (1971-72)”. Bulletin of the Society for Near Eastern Studies in Japan (The Society for Near Eastern Studies in Japan) 15 (1): 1-45. 
    (「オリエント」(日本オリエント学会誌)第15巻第1号(1972年)p.1-45に収録されている『クルナ水没文化財引き揚げ調査団報告第一次 (1971年 - 1972年)』(著:江上 波夫))
  • Finkel, Irving L.; Seymour, Michael J. (2009). Babylon. Oxford University Press 
    (『バビロン』(編:アーヴィング・フィンケル、マイケル・シーモア、2009年、オックスフォード大学出版))
  • Gelb, Ignace Jay (1994). “The Name of Babylon” (英語). I studied inscriptions from before the flood : ancient Near Eastern, literary, and linguistic approaches to Genesis 1–11. Eisenbrauns. pp. 266-269 
    (『私は、洪水が起こる以前の碑文を研究した - 創世記 第1章 - 第11章への古代近東文学的・言語学的なアプローチ』(編:リチャード・ヘス、、津村俊夫、1994年、ペンシルベニア州立大学出版アイゼンブラウン(米国))のp.266-269に収録されている、『バビロンという名前』(著:イグナス・ジェイ・ゲルブ))
  • Hilprecht, Hermann Vollrat (1903). Exploration in the Bible Lands During the 19th Century. A. J. Holman and Company 
    (『19世紀における聖書の土地の探検』(著:ヘルマン・フォルラート・ヒルプレヒト、1903年、A・J・ホルマン・アンド・カンパニー社(米国)))
  • Jakob-Rost, Liane; Marzahn, Joachim (1990) (英語). Babylon. Staatliche Museen zu Berlin. Vorderasiatisches Museum 
    (『バビロン』(著リアン・ジェイコブ・ロスト、ジョアキム・マーザン、1990年、ベルリン美術館及びベルリン州立中東博物館))
  • Koester, Craig R. (2014). Revelation. Yale University Press 
    (『黙示』(著:クレイグ・R・ケスター、2014年、エール大学出版))
  • Koldewey, Robert (1911) (ドイツ語). Die Tempel von Babylon und Borsippa. J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung 
    (『バビロンとボルシッパの神殿』(著:ロベルト・コルデウェイ、1911年、J・C・ハインリッヒ書店(ドイツ)))
  • Koldewey, Robert (1913) (ドイツ語). Das wieder erstehende Babylon, die bisherigen Ergebnisse der deutschen Ausgrabungen. J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung 
    (『現れるバビロン:現時点でのドイツによる発掘結果』(著:ロベルト・コルデウェイ、1913年、J・C・ハインリッヒ書店(ドイツ)))
  • Koldewey, Robert (1918) (ドイツ語). Das Ischtar-Tor in Babylon. J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung 
    (『バビロンのイシュタル門』(著:ロベルト・コルデウェイ、1918年、J・C・ハインリッヒ書店(ドイツ)))
  • Lambert, Wilfred George (2011). “Babylon: Origins” (英語). Babylon : Wissenskultur in Orient und Okzident/ Science Culture Between Orient and Occident. De Gruyter. pp. 71-76 
    (『バビロン - 東洋と西洋における科学の文化』(編:エヴァ・キャンシキシュバウム、マルガリーテ・ファン・エス、ヨアヒム・マルツァーン、2011年、デ・グルーター出版(ドイツ))のp.71-76に収録されている、『バビロン:その起源』(著:ウィルフレッド・ジョージ・ランバート))
  • Larsen, Mogens Trolle (1996). The Conquest of Assyria: Excavations in an Antique Land (1st ed. ed.). Routledge 
    (『アッシリアの征服:古代の土地の発掘』(著:モーゲンス・トロール・ラルセン、1996年、ラウトリッジ出版(英国)))
  • Layard, Austen H. (1853). Discoveries among the Ruins of Nineveh and Babylon. Harper & Brothers 
    (『ニネヴェとバビロンの遺跡での発見』(著:オースティン・ヘンリー・レイヤード、1853年、ハーパー・アンド・ブラザーズ出版(米国))
  • Liverani, Mario (2016) [2013]. Imagining Babylon: The Modern Story of an Ancient City. Ailsa Campbell. De Gruyter 
    (『バビロンを想像する:古代都市の現在』(著:マリオ・リヴェラーニ、2016年、ウォルター・ド・グルーター出版(ドイツ))、原著はイタリア語で2013年に出版)
  • Loftus, William Kennett (1857). Travels and researches in Chaldaea and Susiana: with an account of excavations at Warka, the "Erech" of Nimrod, and Shush, "Shushan the Palace" of Esther, in 1849-52. Robert Carter & Brothers 
    (『カルデアとスシアナでの旅行・調査 - ワルカ(ニムロドのエレク)及びシューシュ(エステルのシューシャン宮殿)の発掘報告(1849年 - 1853年)』(ウィリアム・ケネット・ロフタス、ロバート・カーター・アンド・ブラザーズ出版、1857年)
  • MacGinnis, John (1986). “Herodotus' Description of Babylon”. Bulletin of the Institute of Classical Studies 33: 67–86. https://www.academia.edu/10243265 18 March 2015閲覧。. 
    (『古典研究学会会報』第33号(1986年、ロンドン大学)p.67-86に収録されている『ヘロドトスによるバビロンの記述』(著:ジョン・マクギニス))
  • Mackey, Albert (1898/1906). History of Freemasonry. 1. Masonic History Company 
    (『フリーメイソンの歴史(第1巻)』(著:アルバート・マッケイ、1898年/1906年、フリーメイソン歴史社))
  • Magnusson, Magnus (1977) (英語). BC: The Archaeology of the Bible Lands. BBC Publications 
    (『紀元前:聖書の土地の考古学』(マグヌス・マグヌッソン、1977年、BBC出版))
  • Mieroop, Marc van de (1997) (英語). The Ancient Mesopotamian City. Oxford University Press 
    (『古代メソポタミアの都市』(著:マーク・ヴァン・デ・ミーループ、オックスフォード大学出版、1997年))
  • Mignan, Robert (1829). Travels in Chaldaea: Including a Journey from Bussorah to Bagdad, Hillah and Babylon, Performed on Foot in 1827 
    (『カルデアでの旅行:ブッソーラからバグダッド、ヒッラ、バビロンまでの旅を含み、1827年に徒歩によって行ったもの』(著:ロバート・ミグナン、1829年))
  • Mommsen, Theodor; Dickson, William Purdie; Haverfield, Francis (2004). The provinces of the Roman Empire: from Caesar to Diocletian, Vol. II. Gorgias Press LLC. https://books.google.com/books?id=hJwa2cjamJMC 
    (『ローマ帝国の属州:カエサルからディオクレティアヌスまで』(第2巻)(著:テオドール・モムゼン、ウィリアム・パーディ・ディクソン、フランシス・ヘイバーフィールド、2004年、ゴルギアス出版(米国)))
  • Musa, Maryam U. (2011). “The situation of the Babylon Archeological Site until 2006” (英語). Babylon : Wissenskultur in Orient und Okzident/ Science Culture Between Orient and Occident. De Gruyter. pp. 19-46 
    (『バビロン - 東洋と西洋における科学の文化』(編:エヴァ・キャンシキシュバウム、マルガリーテ・ファン・エス、ヨアヒム・マルツァーン、2011年、デ・グルーター出版(ドイツ))のp.19-46に収録されている、『バビロンにおける2006年までの考古学遺跡の状況』(著:マリヤム・U・ムーサ))
  • Oppert, Jules (1863). Expedition scientifique en Mesopotamie executee par ordre du gouvernement de 1851 a 1854 
    (『政府命令により1851年 - 1854年に実施された、メソポタミアにおける科学的探検』(著:ジュール・オッペール、1863年))
  • Pedersen, Olof (2011) (英語). Babylon. Walter de Gruyter. https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/9783110222128.47/html 
    (『バビロン』(著:オロフ・ペダーセン、2011年、ウォルター・ド・グルーター出版(ドイツ)))
  • Pillet, Maurice (1922). L'expedition scientifique et artistique de Mesopotamie et de Medie, 1851-1855 
    (『メソポタミア及びメディアにおける科学的・美術的探検 1851年 - 1855年』(著:モーリス・ピレ))
  • Potts, Daniel T. (2021). “'Un coup terrible de la fortune:' A. Clément and the Qurna disaster of 1855” (英語). In Context: The Reade Festschrift. Archaeopress Archaeology (Oxford). pp. 235-244 
    (『ジュリアン・エッジワース・リード記念論文集』(編:アーヴィング・フィンケル、ジョン・シンプソン、2021年、考古学出版(イギリス・オックスフォード))p.235-244に収録されている『「ひどい災難」クレメントと1855年のクルナの災厄』(著:ダニエル・T・ポッツ))
  • Radner, Karen (2020) (英語). A Short History of Babylon. Bloomsbury Academic 
    (『バビロン小史』(著:カレン・ラドナー、2020年、ブルームズベリー出版))
  • Rassam, Hormuzd (1897). Asshur and the Land of Nimrod: Being an Account of the Discoveries Made in the Ancient Ruins of Nineveh, Asshur, Sepharvaim, Calah. Curts & Jennings 
    (『アッシュルと、ニムルドの地:ニネヴェ、アッシュル、セファルワイム、カラハの古代遺跡発見についての報告』(著:ホルムズ・ラッサム、1897年、カーツ・アンド・ジェニングス社(米国?)))
  • Rawlinson, George (2002). The Seven Great Monarchies of the Ancient Eastern World. Gorgias Press 
    (『古代東方世界の7つの王朝』(著:ジョージ・ローリンソン、2002年、ゴルギアス出版(米国)))
  • Reade, Julian (1993). “Hormuzd Rassam and his discoveries”. Iraq (cambridge university press) 55: 39-62. (ケンブリッジ大学年報「イラク」第55号(1993年)p.39-62に収録されている『ホルムズ・ラッサムとその発見』(著:ジュリアン・リード))
  • Reade, Julian Edgeworth (2009). “Disappearance and rediscovery” (英語). Babylon. Oxford University Press. pp. 13-30 
    (『バビロン』(編:アーヴィング・レオナード・フィンケル、ミカエル・ジョン・シーモア、2009年、オックスフォード大学出版)p.13-30に収録されている『消滅と再発見』(著:ジュリアン・エッジウォース・リード))
  • Rich, Claudius James (1815). Memoirs on the Ruins of Babylon 
    (『バビロンの廃墟 回顧録』(著:クローディアス・ジェームズ・リッチ、1815年))
  • Rich, Claudius James (1818). Second memoir on Babylon; containing an inquiry into the correspondence between the ancient descriptions of Babylon, and the remains still visible on the site 
    (『バビロンの廃墟 回顧録2:バビロンに関する古代の記述との一致に関する調査と、今なお見ることができる遺跡』(著:クローディアス・ジェームズ・リッチ、1818年))
  • Rothfield, Lawrence (2009). The Rape of Mesopotamia: Behind the Looting of the Iraq Museum. University of Chicago Press. https://archive.org/details/rapeofmesopotami00roth 
    (『メソポタミアの陵辱:イラク博物館の略奪の背景』(著:ローレンス・ロスフィールド、2009年、シカゴ大学出版))
  • Saggs, H.W.F. (2000) (英語). Babylonians. University of California Press.  
    (『バビロニア人』(著:H・W・F・サッグス、2000年、カリフォルニア大学出版))
  • Sayce, Archibald Henry (1872) (英語). The Origin of Semitic Civilisation, Chiefly Upon Philological Evidence. Harrison and Sons 
    (『セム語族の文明の起源 言語学上の証拠から』(アーチボルド・ヘンリー・セイス、1872年、ハリソン・アンド・サンズ出版(英国))p.5)
  • Sayce, Archibald Henry (1878). "Babel" . In Baynes, T. S. (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. III (9th ed.). New York: Charles Scribner's Sons. p. 178.
    (『バビロン(Babylon) - バビロニア(Babylonia)』(アーチボルド・ヘンリー・セイス、1878年。ブリタニカ百科事典(英語版・第9版)第3巻p.178に収録)
  • Sayce, Archibald (1888) (英語). Records of the Past, 2nd series, Vol. 1 
    (『過去の記録』(第2シリーズ第1巻)(著:アーチボルド・ヘンリー・セイス、1888年))
  • Sayce, Archibald Henry (1911). "Babylon" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 98–99.
    (『バビロン(Babylon)』(アーチボルド・ヘンリー・セイス、1911年。ブリタニカ百科事典(英語版・第11版)第3巻p.98-99に収録)
  • Schmid, Hansjorg (1995) (ドイツ語). Der Tempelturm Etemenanki in Babylon. P. von Zabern 
    (『バビロンにあるエテメナンキ神殿の塔』(著:ハンスイェルク・シュミット、1995年、フィリップ・フォン・ザバーン出版社(ドイツ)))
  • Seymour, M. J. (2006). The idea of Babylon: archaeology and representation in Mesopotamia (Doctoral thesis). University College London.
    (『バビロンについての考察:考古学とメソポタミアにおける象徴』(ミカエル・ジョン・シーモア、ロンドン大学博士論文、2006年))
  • Spar, Ira; Jursa, Michael (2014) (英語). The Ebabbar Temple Archive and Other Texts from the Fourth to the First Millennium B.C. . Cuneiform Texts in The Metropolitan Museum of Art.. 4. Metropolitan Museum of Art 
    (『紀元前四千年紀から紀元前千年紀にかけてのエバッバー神殿の記録文書とその他の文書』(メトロポリタン美術館の楔形文字文書シリーズ第4巻。著:アイラ・スパー、マイケル・ジューサ、2014年、メトロポリタン美術館))
  • Tenney, Merrill (1985). New Testament Survey. Inter-varsity Press 
    (『新約聖書概説』(著:メリル・テニー、1985年、インターバーシティ出版))
  • Vedeler, Harold Torger (2006) (英語). A Social and Economic Survey of the Reign of Samsuiluna of Babylon (1794–1712 BC). PhD dissertation accepted at Yale 
    (『バビロン王サムス・イルナの社会経済調査』(ハロルド・トルゲル・ヴェデラー、2006年、イェール大学博士論文))
  • Werr, Lamia Al-Gailani (1988) (英語). Studies in the chronology and regional style of Old Babylonian Cylinder Seals. Bibliotheca Mesopotamica. 23. Undena Publications 
    (『古バビロニアの円筒印章の年代記と地域の様式の研究』(著:ラミア・アル=ガイラニ・ウェアー、1988年、メソポタミカ叢書))
  • Wetzel, Friedrich (1930). Die Stadtmauren von Babylon. J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung 
    (『バビロンの城壁』(著:フリードリヒ・ヴェッツェル、1930年、J・C・ハインリッヒ書店(ドイツ)))
  • Wetzel, Friedrich; Weissbach, Franz Heinrich (1938). Das Hauptheiligtum des Marduk in Babylon: Esagila und Etemenanki. J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung 
    (『バビロンにおけるマルドゥクの聖域の中枢:エサギラとエテメンアンキ』(著:フリードリヒ・ヴェッツェル、フランツ・ハインリッヒ・ヴァイスバッハ、1930年、J・C・ハインリッヒ書店(ドイツ)))
  • Wetzel, Friedrich; Schmidt, Erich; Mallwitz, Alfred (1957). Das Babylon der Spatzeit. J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung 
    (『後期のバビロン』(著:フリードリヒ・ヴェッツェル、エーリッヒ・シュミット、アルフレッド・マルヴィッツ、1957年、J・C・ハインリッヒ書店(ドイツ)))
  • Wolfram, von Soden (1994) (英語). The Ancient Orient: An Introduction to the Study of the Ancient Near East. Eerdmans Publishing Company 
    (『古代オリエント:古代近東学習の手引き』(著:ウォルフラム・フォン・ゾーデン、1994年、エールドマンス出版(米国)))
  • World Monuments Fund (2015). Site Management Plan - Babylon Cultural Landscape and Archaeological City 
    (『遺跡管理計画 - バビロンの文化的地形及び考古学都市』(ワールド・モニュメント財団、2015年))

参考ウェブサイト

[編集]
  • ABC (2003年4月21日). “Saddam removed from ancient Babylon 'brick by brick'” (英語). ABC. 2017年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月18日閲覧。
    (『サダム・フセインが古代バビロンのレンガを置き換えた』(ABCニュース、2003年4月21日))
  • Arraf, Jane (2021年). “In Beleaguered Babylon, Doing Battle Against Time, Water and Modern Civilization - The New York Times | Ghostarchive”. ghostarchive.org. 2022年5月26日閲覧。
    (『水と現代文明に悩むバビロン 時間との戦い』(著:ジェーン・アラフ、2021年、ニューヨーク・タイムズ紙))
  • Bajjaly, Joanne Farchakh (2005年). “History lost in dust of war-torn Iraq” (英語). BBC News. BBC. 2018年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月7日閲覧。
    (BBCのサイトに掲載されている『イラクの戦塵の中で、失われていく歴史』(著:ジョアンナ・ファーカー・バジャリー、2005年))
  • British Museum. “British Museum - Cuneiform tablet with part of the Babylonian Chronicle (605-594 BC)” (英語). 2014年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月30日閲覧。
    (『バビロニア年代記(紀元前605年 - 前594年)の一部を含む楔形文字板』(大英博物館))
  • British Museum (2011年). “Cyrus Cylinder” (英語). The British Museum. 2011年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月27日閲覧。
    (『キュロスの円筒形碑文』(大英博物館、2011年))
  • CNN (2013年). “Bringing Babylon back from the dead - CNN Video” (英語). CNN. CNN. 2021年9月29日閲覧。
    (『死んだバビロンを蘇らせる』(動画、CNN、2013年))
  • Cornwell, Rupert (2006年). “US colonel offers Iraq an apology of sorts for devastation of Babylon” (英語). The Independent. 2011年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月19日閲覧。
    (インディペンデント紙(イギリス)のウェブサイトに掲載されていた『米軍大佐はバビロンの破壊に対し、謝罪を申し出た』(著:ルパート・コーンウェル、2006年))
  • CRAST (2017年). “IRAQ: Babylon” (英語). Centro Ricerche Archeologiche e Scavi di Torino. Centro Ricerche Archeologiche e Scavi di Torino. 2017年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月1日閲覧。
    (トリノ考古学研究・発掘センター(イタリア)のウェブサイト記事『イラク:バビロン』(2017年))
  • Davis, Nicola (5 July 2019 2019). “Ancient city of Babylon heads list of new Unesco world heritage sites ”. The Guardian. 29 November 2019時点のオリジナルよりアーカイブ5 July 2019閲覧。
    (『バビロンの古代都市が、新たに追加された世界遺産リストのトップを飾る』(著:ニコラ・デーヴィス、2019年、ガーディアン紙))
  • Ditmars, Hadani (2019年). “Iraq's ancient city of Babylon gets long-overdue international recognition” (英語). MEI@75. Middle East Institute. 2021年10月1日閲覧。
    (中東研究所(米国)のサイトに掲載されている、『イラクの古代都市バビロンは長い間、国際的に忘れ去られている』(著:ハダニ・ディトマース、2019年))
  • Fordham, Alice (23 February 2021 2021). “'It Was Like Magic': Iraqis Visit Babylon And Other Heritage Sites For 1st Time ”. NPR.org. 2021年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。29 July 2021閲覧。
    (『それはまるで魔法のようだった:イラク人がバビロンや他の遺産遺跡を初めて訪問する』(著:アリス・フォーダム、2021年、NPR.org))
  • Garcia, Brittany (2013年). “Ishtar Gate” (英語). World History Encyclopedia. World History Encyclopedia. 2021年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月19日閲覧。
    (ウェブサイト『世界史百科事典』に掲載されている『イシュタル門』(著:ブリタニー・ガルシア、2013年))
  • Gettleman, Jeffrey (2006年). “Unesco intends to put the magic back in Babylon” (英語). International Herald Tribune. 2006年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月19日閲覧。
    (インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙のウェブサイトに掲載されていた『ユネスコはバビロンに魔法をかけるつもりである』(著:ジェフリー・ゲットルマン、2006年))
  • Hooker, Richard (1999年). “Mesopotamia: The Persians” (英語). Mesopotamia. 2011年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月30日閲覧。
    (『メソポタミア:ペルシア人』(リチャード・フッカー、1999年))
  • Leeman, Sue (2005年1月16日). “Damage seen to ancient Babylon” (英語). Boston.com. The Boston Globe. 2016年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月21日閲覧。
    (ボストン・グローブ紙(アメリカ)のサイトに掲載されている『古代バビロンに見られる損害』(著:スー・リーマン、2005年))
  • Lendering, Jona (2006年). “ABC 5 (Jerusalem Chronicle)” (英語). Livius.org. Jona Lendering. 2022年12月22日閲覧。
    (『ABC5(エルサレム年代記)』(著:ヨナ・レンダリング、2006年、Livius.org))
  • Lewis, Paul (1989年). “Babylon Journal; Ancient King's Instructions to Iraq: Fix My Palace” (英語). New York Times. New York Times. 2017年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月1日閲覧。
    (ニューヨークタイムス誌のウェブサイトに掲載されている『バビロン日誌:古代の王によるイラクへの指示』(著:ポール・ルウィス、1989年))
  • Marozzi, Justin (2016年8月8日). “Lost cities #1: Babylon - how war almost erased 'mankind's greatest heritage site'”. The Guardian. The Guardian. The Guardian. 2020年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月20日閲覧。
    (ガーディアン紙のサイトにに掲載されている『失われた都市 その1―いかにして戦争により人類の偉大な遺産を失われたか』(著:ジャスティン・マロッツィ、2016年))
  • McBride, Edward (2005年). “Monuments to Self: Baghdad's grands projects in the age of Saddam Hussein” (英語). MetropolisMag. 2005年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月19日閲覧。
    (メトロポリス・マガジン(米国)のウェブサイトに掲載されていた『自分自身への記念碑:サダム・フセイン時代のバグダッドの壮大なプロジェクト』(著:エドワード・マクブライド))
  • McCarthy, Rory (2005年). “Babylon wrecked by war” (英語). The Guardian. 2016年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月18日閲覧。
    (ガーディアン紙のサイトに掲載されている『戦争により破壊されたバビロン』(著:ローリー・マッカーシー、マエブ・ケネディ、2005年))
  • Myers, Steven Lee (2009年5月2日). “Babylon Ruins Reopen in Iraq, to Controversy”. The New York Times. 2017年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月30日閲覧。
    (ニューヨーク・タイムズのウェブサイトに掲載されている、『論争はありつつも、バビロンの廃墟が再開した』(著:スティーブン・リー・マイヤーズ))
  • UNESCO (2018年). “Babylon World Heritage Nomination Text”. UNESCO. 2020年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ2022年10月5日閲覧。
    (バビロン:世界遺産登録推薦書、ユネスコ、2018年1月提出)
  • UNESCO (2019年). “[url=https://whc.unesco.org/document/168482 Maps and Plans: Excavations and Investigations at Babylon]” (英語). UNESCO. 2021年7月29日閲覧。
    (『地図及び平面図:バビロンにおける発掘調査』(ユネスコ、2019年))
  • UNESCO (2020年). “Management Plan of Babylon”. unesco.org. 2020年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ29 July 2021閲覧。
    (『バビロン管理計画』(ユネスコ、2020年))
  • Pfister, Samuel D. (20 January 2021 2021). “The Qurnah Disaster: Archaeology & Piracy in Mesopotamia”. Bible History Daily. 2 March 2021時点のオリジナルよりアーカイブ13 April 2021閲覧。
    (聖書考古学協会のウェブサイト「聖書歴史新聞」に収録されている『クルナの災厄:メソポタミアにおける考古学と海賊行為』(著:サミュエル・D・フィスター、2021年))
  • World Heritage Alert (2006年). “US colonel willing to apologise for damage to Babylon” (英語). World Heritage Alert!. 2016年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月19日閲覧。
    (World Heritage Alert(世界遺産警報)のウェブサイトに掲載された『バビロンに与えた損害を謝罪する米軍大佐』(2006年))

関連項目

[編集]