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エルモア・レナード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルモア・レナード
Elmore Leonard
Leonard at the 70th Annual Peabody Awards Luncheon, 2011
誕生 Elmore John Leonard Jr.
(1925-10-11) 1925年10月11日
New Orleans, Louisiana, U.S.
死没 2013年8月20日(2013-08-20)(87歳没)
Bloomfield Hills, Michigan, U.S.
職業 Writer
最終学歴 University of Detroit
ジャンル
配偶者
  • Beverly Claire Cline
    (結婚 1949年; 離婚 1977年)
  • Joan Shepard
    (結婚 1979年; 死別 1993年)
  • Christine Kent
    (結婚 1993年; 離婚 2012年)
子供 5, including Peter
親族 Megan Freels Johnston
兵役経験
所属組織アメリカ合衆国の旗 アメリカ
部門[[ファイル:Template:Country flag alias United States Navy|border|25x20px|Template:Country alias United States Navyの旗|link=]] [[Template:Country alias United States Navy|Template:Country alias United States Navy]]
軍歴1943年 - 1946年
最終階級  Petty officer third class
部隊  Seabees
戦闘第二次世界大戦
ウィキポータル 文学
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エルモア・ジョン・レナード・ジュニア (Elmore John Leonard Jr., 1925年10月11日 - 2013年8月20日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身の小説家、脚本家。男臭く、歯に衣着せない表現の独特な犯罪小説で知られる。1984年、『ラブラバ』でエドガー賞最優秀長篇賞。1991年にはMaximum Bobで第一回ハメット賞を受賞、1992年にはアメリカ探偵作家クラブ巨匠賞を受賞した。

経歴

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1925年に生まれたレナードは、ゼネラルモーターズに勤めていた父の仕事の都合で1925年から1934年まで引っ越しを繰り返した。 ダラスオクラホマシティメンフィスを経て、1934年に一家はミシガン州デトロイトに落ち着き、以来レナードは、この一帯を自身の郷里とした。

1930年代に、彼の作品の多くに影響を及ぼす2つの主要な出来事があった。ギャングデトロイト・タイガースが全国的ニュースになっていた。1931年頃から1934年5月に殺されるまでボニーとクライド(後年の映画『俺たちに明日はない』で有名)は暴れまわった。タイガースが1934年にワールドシリーズに勝ち進み、1935年に優勝した。スポーツと銃はともにその後の彼を魅了するようになった。

1935年、5年生のときにレマルクの『西部戦線異状なし』に触発されて芝居の台本を書き、教室で上演した。ハイスクール時代は文章を書かず、野球とフットボールに打ち込んでいた。この頃、同級生に(ワシントン・セネタースの投手だったエミル・“ダッチ”・レナードにならって)「ダッチ」というあだ名を付けられた。

1943年にデトロイト大学イエズス会士高校を卒業。海兵隊に志願するが目が悪いため拒否され、海軍シービー(建設部隊)に入隊し、南太平洋で3年間勤務した。 1946年に除隊してデトロイト大学に入学。1947年、GMを辞めたレナードの父は自動車販売をはじめるためにニューメキシコ州に移り住んだ。レナードは卒業後は父のもとで働くつもりでいたが、父は半年で急死した。その後は作家を志して、雑誌短編コンテストに作品を投稿した。1949年に広告代理店に就職し、コピーライターとして働くかたわらに西部劇小説を書いた。大学は1950年に英語と哲学の学位を取得し卒業。

1951年、レナードは、大衆雑誌「アーゴシー(Argosy)」に掲載された短編小説「Trail of the Apache」で成功した。 1950年代から1960年代前半にかけ、彼は短編を30以上書き続けた。 1953年に彼の最初の長編「The Bounty Hunters」を上梓、4本の長編がこの後に続いた。 この時期、短編「The Tall T」と「三時十分発ユマ行き(3:10 to Yuma)」が映画化された。

1961年にレナードは会社を辞め、1963年までフリーランスのコピーライターと脚本家をしていた。1963年からは自分の会社「Elmore Leonard Advertising Company」を作って1966年まで続けた。1969年に初の非西部劇「The Big Bounce」で作家業に復帰する。

以後も小説と映画脚本を書いて生活するが、作家として高い評価と大きな売り上げを得るようになったのは、ようやく1980年代からである(ディーン・クーンツは、1981年の「ベストセラー小説の書き方」で20歳年長のレナードを「これからの有望株」だとしている)。1983年の「ラブラバ」はエドガー賞の長編賞を受賞し、1984年の「グリッツ」は初めてのベストセラーになった。

1990年代に入ると、「ゲット・ショーティ」、「ジャッキー・ブラウン」(原作:『ラム・パンチ』)など作品の映画化が続いた。晩年まで執筆を続けていたが、2013年8月20日に死去した。87歳没。

著書

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  • The Bounty Hunters (1953年)
  • The Law at Randado (1954年)
  • Escape from Five Shadows(1956年)
  • オンブレ (Hombre 1961年)映画『太陽の中の対決』の原作
  • The Big Bounce (1969年)
  • ムーンシャイン・ウォー (The Moonshine War 1969年)
  • Valdez is Coming (1970年)
  • Forty Lashes Less One (1972年)
  • マジェスティックMr. Majestyk 1974年)
  • 五万二千ドルの罠 (Fifty-Two Pickup 1974年)
  • スワッグ (Swag 1976年)
  • 身元不明者89号 (Unknown man No.89 1977年)
  • 追われる男 (The Hunted 1977年)
  • ザ・スイッチ (The Switch 1978年)
  • Gunsights (1979年)
  • 野獣の街 (City Primeval 1980年)
  • マイアミ欲望海岸 (Gold Coast 1980年)
  • スプリット・イメージ (Split Images 1981年)
  • キャット・チェイサーCat Chaser 1982年)
  • スティック (Stick 1983年)
  • ラブラバ (La BRAVA 1983年)
  • グリッツ (Glitz 1985年)
  • バンディッツ (Bandits 1987年)
  • タッチ (Touch 1987年)
  • フリーキー・ディーキー (Freaky Deaky 1988年)
  • キルショット (Killshot 1989年)
  • ゲット・ショーティGet Shorty 1990年)
  • Maximum Bob (1991年)
  • ラム・パンチ (Rum Punch 1992年) 映画『ジャッキー・ブラウン』原作
  • プロント (Pronto 1993年)
  • Riding the Rap (1995年)
  • アウト・オブ・サイトOut of Sight 1996年) スティーヴン・ソダーバーグ監督で映画化
  • キューバ・リブレ (Cuba Libre 1998年)
  • Tonto Woman (1998年)
  • ビー・クールBe Cool 1999年)
  • Pagan Babies (2000年)
  • Tishomingo Blues (2002年)
  • When the Women Come Out to Dance (2002年)
  • ママ、大変、うちにコヨーテがいるよ! (A Coyote's in the House 2003年)
  • Mr. Paradise (2004年)
  • The Complete Western Stories (2004年)
  • ホット・キッド (The Hot Kid 2005年)
  • Comfort to the Enemy (2006年)
  • Up in Honey's Room (2007年)
  • Elmore Leonard's 10 Rules of Writing (2007年)
  • Road Dogs (2009年)

フィルモグラフィー

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映画

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関連文献

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外部リンク

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