久保亘
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久保 亘 くぼ わたる | |
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外務省より公表された肖像 | |
生年月日 | 1929年1月15日 |
出生地 | 日本 鹿児島県姶良町 |
没年月日 | 2003年6月24日(74歳没) |
死没地 | 日本 鹿児島県鹿児島市 |
出身校 |
広島文理科大学(現:広島大学)卒業 鹿児島師範学校(現:鹿児島大学)卒業 |
前職 |
鹿児島県公立高等学校教諭 鹿児島県高等学校教職員組合執行委員長 |
所属政党 |
(日本社会党→) (社会民主党→) (民主改革連合→) 民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 |
内閣 | 第1次橋本内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1996年11月7日 |
選挙区 | 鹿児島県選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1974年7月8日 - 1980年7月7日 1983年7月10日 - 2001年7月22日 |
選挙区 | 鹿児島市区 |
当選回数 | 3回 |
久保 亘(くぼ わたる、1929年(昭和4年)1月15日 - 2003年(平成15年)6月24日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、副総理(第1次橋本内閣)、大蔵大臣(第101代)、鹿児島県議会議員(3期)、日本社会党書記長、社会民主党副党首、民主改革連合最高顧問、民主党参議院議員会長を歴任。正三位勲一等旭日大綬章。
略歴
[編集]経歴
[編集]鹿児島県姶良郡姶良町(現:姶良市)出身[1]。(旧制)長崎県立佐世保中学校1年修了を経て熊本陸軍幼年学校に進学[2]。陸軍予科士官学校在籍中に敗戦により学校解散・復員し、鹿児島師範学校(現:鹿児島大学)に編入学[2]。予科士官学校では鹿児島市長赤崎義則と同期[2]。師範学校卒業後に広島文理科大学(現:広島大学)史学科へ入学し西洋史を専攻[2]、1952年に卒業して鹿児島県の高校教諭となる[3]。鹿児島県立吹上高等学校や鹿児島県立志布志高等学校で教えた後、1958年鹿児島県高等学校教職員組合書記長就任、1961年鹿児島県高等学校教職員組合執行委員長就任[1]。1963年鹿児島県議会議員となり[1][3](鹿児島市区選出[4])、3期務める[1][3]。
政歴
[編集]- 1974年
- 7月7日 第10回参議院議員通常選挙(鹿児島県地方区・日本社会党公認)当選。
- 1980年
- 6月22日 第12回参議院議員通常選挙(鹿児島県地方区・社会党公認)次点・落選。
- 1981年
- 1983年
- 6月26日 第13回参議院議員通常選挙(鹿児島県地方区・社会党公認)2期目当選。
- 党中央執行委員(政策担当)就任。
- 1989年
- 7月23日 第15回参議院議員通常選挙(鹿児島県選挙区・社会党公認)3期目当選。
- 9月 党副書記長就任。
- 1991年
- 4月 党副委員長、9月社会党シャドーキャビネット蔵相就任。
- 1993年
- 1994年
- 4月 細川護煕首相が辞意を表明。連立与党は新生党の羽田孜を次期首班に擁立することで合意し、25日国会で羽田が首相に指名されるが、同日社会党を排除した統一会派改新が結成され、村山委員長は強く反発し、26日社会党は連立政権を離脱。28日羽田内閣は少数与党で発足。以後久保は連立復帰を模索するが、実現せず。
- 6月 内閣不信任決議案を突きつけられた羽田内閣が総辞職。後継政権を巡り、自由民主党、新党さきがけ、連立与党の間で駆け引きが展開され、社会党は、久保を中心とする勢力が従来の非自民連立政権を志向する一方、村山や野坂浩賢らを中心とする勢力は自民、さきがけの働きかけに呼応した。非自民政権のキーマンである小沢一郎が自民党の海部俊樹の擁立を図ったことへの反発もあり、首相指名選挙で社会党は村山に投票することで一致。自民、さきがけも村山に投票し、自民党内の海部票は少数にとどまったため、村山が首相に指名され、自民、社会、さきがけ3党の連立による村山内閣が発足。久保は村山委員長の首相就任に伴い委員長代行に就任。
- 8月 久保らが党内中間派・右派の再結集を図る政策集団「新民主連合」を結成(会長は山花前委員長)。
- 10月 小沢ら旧連立勢力の「新・新党」に対抗して、「民主・リベラル新党」の結成を目指すと発表。
- 1995年
- 1月17日 山花らが「民主・リベラル新党」の結成を予定していたが、阪神大震災により延期。結局断念。
- 7月23日 第17回参議院議員通常選挙(鹿児島県選挙区・社会党公認)4期目当選。
- 1996年
- 1997年
- 1月12日 社民党を離党。
- 1月14日 民主改革連合(民改連)に加わり最高顧問に就任。
- 1998年
- 民改連も参加していた院内会派「民主友愛太陽国民連合」による新・民主党結成を受け、参院民主党の実権を握る。
- 2000年
- 8月 民主党の参院議員会長に就任。
- 2001年
- 第19回参議院議員通常選挙に立候補せず、政界を引退。勲一等旭日大綬章受章[5]。
- 2003年6月24日
政策・主張
[編集]- 1999年、国旗及び国歌に関する法律案の参議院本会議における採決で反対票を投じた。
選挙歴
[編集]当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 |
比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当 | 第10回参議院議員通常選挙 | 1974年7月7日 | 鹿児島県地方区 | 日本社会党 | 252,428 | 27.9 | 2/6 | - | - | |
落 | 第12回参議院議員通常選挙 | 1980年6月22日 | 鹿児島県地方区 | 日本社会党 | 287,975 | 30.5 | 3/5 | - | - | |
落 | 第10回鹿児島県知事選挙 | 1981年2月8日 | 鹿児島県 | 無所属 | 219,324 | 34.0 | 2/3 | - | - | |
当 | 第13回参議院議員通常選挙 | 1983年6月26日 | 鹿児島県選挙区 | 日本社会党 | 314,724 | 35.0 | 2/4 | - | - | |
当 | 第15回参議院議員通常選挙 | 1989年7月23日 | 鹿児島県選挙区 | 日本社会党 | 412,127 | 45.8 | 2/4 | - | - | |
当 | 第17回参議院議員通常選挙 | 1995年7月26日 | 鹿児島県選挙区 | 日本社会党 | 238,594 | 34.6 | 2/4 | - | - | |
当選回数4回 (参議院議員4) |
文献
[編集]著書
[編集]- 『くぼタンの消費税廃止奮戦記』日本社会党中央本部機関紙局、1990年1月
- 『社会党の選択 : 新しい政権戦略を考える』晩稲社、1992年4月
- 『連立政権の真実』読売新聞社、1998年5月、ISBN 4643980400
共著
[編集]- 『いま、民主リベラル : 寛容な市民政党をつくる』田原総一朗共著、日本社会党機関紙局、1995年1月、ISBN 4930886910
脚注
[編集]- ^ a b c d 「鹿児島県人国記」『鹿児島県風土記』芳即正;塚田公彦 監修、旺文社、1995年、491頁。ISBN 978-4010710876。
- ^ a b c d 『久保亘さんが語る:政治家が議会を去るとき 久保亘さんを語る:お別れのことば』三州倶楽部、2003年、9-13,36頁。
- ^ a b c 「著者略歴」『いま日本の政治を考える 参議院議員久保亘講演集』久保亘、久保亘を励ます会事務局、2001年5月。
- ^ 『鹿児島県議会史 別巻』鹿児島県議会、1971年、46頁。
- ^ 「2001年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2001年11月3日朝刊
- ^ “久保亘元副総理死去 旧社会党書記長” (2003年6月26日). 2009年7月21日閲覧。
関連項目
[編集]- 第1次橋本内閣
- 日本社会党、社会民主党
- 民主改革連合、民主党
- 末川博(立命館大学名誉総長)- 1994年6月19日、テレビ朝日『サンデープロジェクト』で座右の銘が末川の言葉『未来を信じ、未来に生きる』と明かした。
公職 | ||
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先代 橋本龍太郎 |
国務大臣(副総理) 1996年 |
次代 菅直人 |
先代 武村正義 |
大蔵大臣 第92代:1996年 |
次代 三塚博 |
議会 | ||
先代 赤桐操 |
参議院懲罰委員長 1990年 - 1991年 |
次代 対馬孝且 |
先代 対馬孝且 |
参議院社会労働委員長 1979年 - 1980年 |
次代 片山甚市 |
党職 | ||
先代 本岡昭次 |
民主党参議院議員会長 第3代 : 2000年 - 2001年 |
次代 角田義一 |
先代 赤松広隆 |
日本社会党書記長 第14代 : 1993年 - 1996年 |
次代 社会民主党へ党改組 |