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伏見博英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
博英王
伏見博英
伏見宮家・伏見伯爵家
伏見博英少佐(1940年代)
続柄

称号 海軍少佐(死後1階級昇進)
身位 伯爵華族
敬称 殿下閣下
出生 1912年10月4日
東京府東京市
死去 (1943-08-21) 1943年8月21日(30歳没)
セレベス島
配偶者 柳沢豊子(先妻)
  黒田定子(後妻)
子女 伏見博孝(養子)
父親 伏見宮博恭王
母親 博恭王妃経子
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伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年大正元年〉10月4日 - 1943年昭和18年〉8月21日)は、日本皇族華族海軍軍人第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。

略歴

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博英王(1934年頃、海軍少尉候補生

1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后昭和天皇后)の再従弟にあたる。

海軍兵学校第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。

最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという[1]

1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任[2]1936年(昭和11年)4月1日臣籍降下して貴族院議員の資格が消滅し[3]昭和天皇から伏見の家名を賜り、伯爵に叙せられる。第3連合通信隊司令部に属していたが、1943年8月21日セレベス島南部ボネ湾上空で乗機が撃墜され戦死し、海軍少佐に特進する。

墓は青山霊園の警視庁墓地。伏見伯爵家の家督は、兄華頂博信の子で博英の養子となっていた伏見博孝が継いだ。

栄典

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血縁

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脚注

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  1. ^ マネー現代【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、40頁。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、44頁。
  4. ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
  5. ^ 『官報』第2748号、「叙任及辞令」1936年3月3日。p.26
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  7. ^ 平成新修旧華族家系大成下p456

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目

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外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
伏見家初代
1936年 - 1943年
次代
伏見博孝