元伊勢
元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所。
概要
[編集]伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、さらに理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる[1]。遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『神道五部書』の一書である『倭姫命世記』において、より詳しく記されている。
外宮の祭神である豊受大御神は、『古事記』『日本書紀』に記載を欠いている状況であるものの、『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世記』によれば、第21代雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。
天照大御神が遍歴する説話は、『常陸国風土記』の筑波山の話に登場する祖神や民間説話の弘法大師伝説に類するものとされる。一般の神社の縁起でも鎮座地を求めて神が旅する話は多いので、「旅する神」の典型的な類型であるとされる。
元伊勢伝承は『皇太神宮儀式帳』・『止由氣宮儀式帳』や、『古語拾遺』、『延喜式』などの所伝から派生しているが、詳細な伝承地については不明な点が多く、以前は二十数箇所とされていたものが現在では六十箇所を超える。これらは各地の神社に伝わる伝承が元となっており、中には近隣で伝承地を唱えるものもあるなど、伝承地の真偽のほどについては不明である。
一覧
[編集]皇大神宮
[編集]1)遷幸順に宮名(地名)と候補地(神社)または伝承地を記す。
2)「日本書紀」は『日本書紀』、「儀式帳」は『皇太神宮儀式帳』、「世記」は『倭姫命世記』における記載を表す。
3)「世記」欄の括弧内は奉斎(滞在)年数。
- ^ a b c 「吉備国」を「紀伊国名草郡吉備郷」と見る説もある(『大日本地名辞書』や伴信友『倭姫命世記考』など)。
- ^ 「一云」として記載。
- ^ 河曲と鈴鹿は異なる郡なので、御巫清直は、『儀式帳』における記載は河曲郡の伝承が脱漏したものであろうとする(『太神宮本記帰正鈔』)。なお群書類従本『儀式帳』には「河曲次〔イ无〕鈴鹿」とある
- ^ a b 「藤方宮」が壱志(一志)郡と安濃郡と両様に書かれているのは、「方(かた)」が「潟(かた)」であり、阿佐加の地一帯がかつて潟湖をなしていたため、所属郡を明確にしえなかったためであろうとされている(櫻井治男「阿射加神社」<『日本の神々-神社と聖地』第6巻、白水社、1986年所収>)。
- ^ 「一書曰」として「安濃藤方片樋宮」にも作る。
- ^ 「一云」として記載。この「一云」は雄略天皇朝の豊受大神宮遷座の記事が誤入されたもので、「渡遇宮」は豊受大神宮の事であるとする説もある(田中卓「神宮の創祀と発展」(1959年)、「外宮御鎮座の年代と意義」(1977年)、「神宮の創祀について」(1984年)(いずれも田中卓著作集4巻に所収))。
豊受大神宮
[編集]1)遷幸順に地名と比定地(神社)または伝承地を記す。
2)「儀式帳」は『止由気宮儀式帳』、「世記」は『倭姫命世記』における記載を表す。
国名 | 宮名(地名) | 候補地(伝承地) | |||
---|---|---|---|---|---|
儀式帳 | 世記 | 対象名 | 所在地 | 座標 | |
丹波国 | 比治真奈井 | 与佐之小見比治之魚井原 (与謝郡比冶山頂麻奈井原) |
比沼麻奈為神社 | 京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷 | 北緯35度35分33.4秒 東経135度01分44.4秒 |
奈具神社 | 京都府京丹後市弥栄町船木 | 北緯35度40分15.3秒 東経135度06分10.2秒 | |||
真名井神社(籠神社摂社) | 京都府宮津市字中野 | 北緯35度35分11.7秒 東経135度11分54.5秒 | |||
豊受大神社 | 京都府福知山市大江町天田内 | 北緯35度24分09.2秒 東経135度09分05秒 | |||
摂津国 | 大神木神社(假宮[2]・姫宮) | 大阪府吹田市山田市場(旧:摂津国三島郷大神木) (旧社地)吹田市尺谷 |
北緯34度47分34.1秒 東経135度32分11秒 | ||
伊勢国 | 度会宮 | 山田原宮 | 豊受大神宮 | 三重県伊勢市豊川町 | 北緯34度29分14秒 東経136度42分10.45秒 |
脚注
[編集]- ^ 「磯城神籬」は崇神紀に記す天照大神の大和笠縫邑への奉還の中で現れ、神鏡安置の施設として神籬が想像され、磯城は神武東征の終焉地であり、その施設の聖域を意味し、磐座と性格が似て、広大な水平の景観が磯城の姿の伝統を残すものである。伊勢神宮において、心御柱は、地中に柱身の大部分を埋め、その周辺を榊で包み、祭祀を象徴する土器が備えてあるという。天照大神の神鏡がはじめて奉納されたときの姿を「天の香久山の五百津真賢木を根ごと掘ってきて、上枝に玉を掛け、中枝に鏡を掛け」と伝えているが、榊の葉を付けた心御柱は、祭祀の時に五百津真賢木の姿を象徴したものである。
- ^ 神社の神殿を改築・修理する間、一時的に神体を移す権殿 (かりどの)・仮遷宮
参考文献
[編集]- 大阪府神社庁編『伊勢の神宮【ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて】』、和泉書院、1993年 ISBN 4-87088-609-X
- 大隅和雄校注『倭姫命世記』『中世神道論』(日本思想大系)、岩波書店、1977年 ISBN 978-4-000-70019-1
- 田中卓『伊勢神宮の創祀と発展』(田中卓著作集4)、国書刊行会、1985年 ISBN 978-4-336-01613-3