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国民英学会

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国民英学会(こくみんえいがくかい)は、明治大正期に著名だった日本私塾ないし進学予備校、英語学校。単なる洋学校ではなく、旧制中学校から旧制専門学校相当の教育機関の要素があった[1]

概要

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1888年(明治21年)2月、慶應義塾の英語教師経験をもち、英語雑誌を刊行していた米国人のフレデリック・イーストレイク(イーストレーキ)と慶應義塾出身の英学者磯辺弥一郎によって東京市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)に設立。当時、慶應義塾の人々が力を入れて推進していたのは、医学や英学であって実用英語ではなかった[2]。これに不足を感じた磯辺が幹事に、イーストレーキが教頭となり、両人のほかに1名の教師を雇って開校した[3]。初めは授業料も無く月謝も極めて安かった。苦学生のための夜間部も開校し、1906年(明治39年)には別科の中に数理化受験科を設立するまでに至った。

開校2年のうちに会員総数は1700名を越え、日々出席する生徒は600人を数える盛況となったが[4]、イーストレーキが収入面の不満から、退職して独立することを磯辺に通告、数百人の生徒を抱えるなか、退職わずか1週間ほど前の突然の通告であったため、急ぎ和田垣謙三井上十吉に協力を仰ぎ、川田正澂長沢市蔵高橋五郎 (翻訳家)らを講師に招いて運営を続けた[5]。イーストレーキの妻によると、退職はイーストレーキの意思ではなく、磯辺の策略により追い出されたとしている[6]

第一高等学校をはじめとする高等学校高等商業学校(東京高等商業学校→東京商科大学)、慶應義塾などの正規の学歴コースに乗れない者たちを対象とする学校であるにも拘らず、講師陣には高名な英語学者であるアーサー・ロイド(慶應義塾大学教授)、斎藤秀三郎(第一高等学校教授)、吉岡哲太郎(理学博士)、内藤明延、岡倉由三郎を迎えるなど講義の質が高く、人気を集めた。

しかし、やがて磯辺と反目した斎藤は、1896年(明治29年)10月、国民英学会から分裂する形で、同じ神田錦町3丁目に正則英語学校を開校し、校長に就任。斎藤みずから教鞭を執った他、上田敏戸川秋骨といった名講師を揃え、磯辺と別れて開校した英学校が不調に終わったイーストレイクもこれに加わった。

1897年に国民英学会は神田錦町3丁目19番地に校舎を増築し、米国帰りの北島亘・リリアン夫妻らを講師に会話専修科を新設した。北島はハーバード大学神学校などで学び、米国でユニテリアン牧師になった最初の日本人で、家庭教師をしていた岩崎小弥太の父・岩崎弥之助の縁故で日本銀行に入行したためほどなくして講師を辞したが、妻のリリアンは20年以上にわたって国民英学会で教えた[7]

正則英語学校(現・正則学園高等学校)の出現で、国民英学会は勢いをそがれることとなったが、正則と並ぶ英学校としてその後の大正・昭和初期にかけても学問機関として存続し、1945年ごろまで活動していたことが確認できる[8]

著名な出身者

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脚注

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  1. ^ 吉野剛弘「明治後期における旧制高等学校受験生と予備校」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』第51号、慶應義塾大学大学院社会学研究科、2000年、31-42頁、ISSN 0912456XNAID 110000182605 
  2. ^ 前山隆 風狂の記者:ブラジルの新聞人三浦鑿の生涯 P,448
  3. ^ 『国民英学会創立第三十周年回想録』p1
  4. ^ 2周年記念の国民英学会『新聞集成明治編年史. 第七卷』 (林泉社, 1940) p.386, doi:10.11501/1920380
  5. ^ イーストレーキ氏去る『国民英学会創立第三十周年回想録』磯辺弥一郎 著 (国民英学会出版局, 1918), doi:10.11501/980430
  6. ^ イーストレーキ・ナヲミ『憶ひ出の博言博士』(信正社、1936年7月18日)p124
  7. ^ 横浜山手病院について22.解説編:北島剛三とその一族(2)内田和秀、聖マリアンナ医科大学雑誌Vol. 43, pp. 293-296, 2016 [リンク切れ]
  8. ^ 『朝日新聞』1945年1月7日付け朝刊2頁「(広告)国民英学会」

外部リンク

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