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文覚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文覚
文覚上人画像 神護寺蔵 東京国立博物館寄託
宗派 真言宗
寺院 神護寺
弟子 上覚
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文覚『集古十種
遠藤盛遠を名乗っていた頃の若き文覚。人妻・袈裟御前に恋し、その夫を殺害せんために寝室に忍び寄る。月岡芳年画
那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子制多迦童子月岡芳年画)
文覚と矜羯羅童子制多迦童子歌川国芳画)

文覚(もんがく、生没年不詳[1][注釈 1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士真言宗。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)[1]。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

生涯

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摂津源氏傘下の武士団である渡辺党遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。

京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺[注釈 2]高野山大塔、東大寺[注釈 3]江の島弁財天[注釈 4]など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する[注釈 5]

頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、三左衛門事件に連座して源通親佐渡国へ配流される[注釈 6]。通親の死後、建仁2年(1202年)に許されて京に戻るが、翌建仁3年(1203年)[注釈 7]に、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。墓所は遺言により神護寺の裏山山頂の眺望の良い場所にある。ただし、文覚は伝説の多い人物であり、隠岐や信州高遠など、死没地とされる場所が各所にあり、それぞれの多くにも墓所とされる場所がある。

人物

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玉葉』によれば、頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたという[注釈 8]

愚管抄』には、乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれ[注釈 9]、また、文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとする[注釈 10]

井蛙抄』によれば、同時代の僧侶西行を憎んでいたとの噂があったと言う[注釈 11]

平家物語』では巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代」では頼朝に直接六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政を批判したため隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする。いずれも史実との食い違いが多く、『平家物語』特有のドラマチックな脚色がなされていると言えるが、何らかの方法で後白河の密旨が頼朝にもたらされた可能性は高いとする見解もある[5][注釈 12]

源平盛衰記』は、出家の原因は、従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前wikidataに横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする[注釈 13]。稀代の扇動者、文覚の前日譚が文覚発心である。事件は創作とされるが、登場する袈裟御前は絶世の美女、孝道と貞節の狭間で死を選んだ貞女とされてきた。

和歌山県かつらぎ町笠田(かせだ)には文覚が開削したとする伝承が伝わる文覚井(もんがくゆ)が所在している。文覚井は紀伊国桛田荘(かせだのしょう)を灌漑した中世の用水路

那智滝の下流に文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在し、滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いがやってきて修行を成就するシーンがよく描かれる。この滝は2011年(平成23年)の紀伊半島大水害で消滅した。

島根県隠岐郡知夫村に伝わる伝承では、正治2年(1200年)に隠岐知夫里島に流罪となったとされ、かつての同志である安藤帯刀に世話になったのちに、西ノ島の洞窟で修業を行い、没後は知夫里島に埋葬されたとされる[7]。島根県隠岐郡西ノ島町に文覚が修行をした文覚窟、知夫村には文覚上人の墓がある[8]

伝記

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関連作品

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映画
テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では、生年を保延5年(1139年)、没年を建仁3年7月21日1203年8月29日)とする[1]
  2. ^ 『愚管抄』巻六:高雄寺ヲモ東寺ヲモナノメナラズ興隆シケリ。
  3. ^ 日本外史』巻之三 源氏正記源氏下: 頼朝、政子・頼家と南都に赴き、東大寺を落す。…僧文覚をして役を司らしむ。
  4. ^ 吾妻鏡養和二年(1182年)四月小五日乙巳: 武衛(頼朝)令出腰越辺江嶋給。…是高雄文学上人。為祈武衛御願。奉勧請大弁財天於此嶋。
  5. ^ 『吾妻鏡』文治元年(1185年)十二月十七日: 虜権亮三位中将惟盛卿嫡男、字六代、令乗輿、被向野地之処、神護寺文学上人、称有師弟眤、申請。
  6. ^ この事件について河内祥輔一条家持明院家による守貞親王擁立計画に文覚が巻き込まれたと推測しているが[2]、曽我部愛はこの事件における文覚の処罰が外戚である公家よりも重かったこと、対馬への流罪もこの事件を機に後鳥羽上皇に没収された神護寺領の返還を巡るトラブルが原因とする『平家物語』の記事が事実ならば2回の配流は密接に関わっていること、承久の乱後に守貞親王(後高倉院)によって後鳥羽上皇が没取した神護寺領が直ちに返還されていることを指摘して、守貞親王擁立計画の首謀者は文覚その人であったとしている[3]
  7. ^ 神護寺のホームページでは、元久2年(1205年[4]
  8. ^ 『玉葉』巻三十八 寿永二年(1183年)九月二十五日: 伝聞、頼朝、文覚聖人を以て、義仲等を勘発せしむ云々。是れ追討懈怠、並びに京中を損じるの由云々、即付件聖人陳遣云々。
  9. ^ 『愚管抄』巻六:文学ハ行ハアレド学ハナキ上人也。アサマシク人ヲノリ悪口ノ者ニテ人ニイハレケリ。天狗ヲ祭ルナドノミ人ニ云ケリ。
  10. ^ 『愚管抄』巻五: 又光能卿院ノ御気色ヲミテ。文覚トテ余リニ高雄ノ事ススメスゴシテ伊豆ニ流サレタル上人アリキ。ソレシテ云ヤリタル旨モ有ケルトカヤ。但是ハ僻事也。…四年同ジ伊豆国ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル。其文覚サカシキ事共ヲ。仰モナケレドモ…
  11. ^ 『井蛙抄』巻第六 雑談: 文学上人は西行をにくまれけり。其の故は、遁世の身とならば、一すじに仏道修行の外、他事あるべからず。数寄を立てて、ここかしこにうそぶきありく条、にくき法師なり。いづくにても、見あひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねのあらましにて有りけり…
  12. ^ 鎌倉後期の1300年頃に成立した『吾妻鏡』は後白河の院宣を記していないが、鎌倉前期の1220年代成立の『愚管抄』は頼朝挙兵のきっかけとして院近臣の藤原光能が後白河の意向を汲んで院宣を発給し文覚に与えたとの伝聞を記している。著者の慈円は「僻事(誤り)」として退けているが、逆に言えば当時は否定せざるを得ないほど院宣発給の言説が流通していたと思われる。鎌倉前期成立の慈光寺本『承久記』や南北朝期成立の『梅松論』『増鏡』でも頼朝が院宣により挙兵したと記されており、南北朝期成立の『保暦間記』や真名本『曽我物語』でも院宣に触れている[6]
  13. ^ 『源平盛衰記』巻第十九「文覚発心附東帰節女事」: 盛遠は、人の申に非ず、袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす…

出典

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  1. ^ a b c 文覚https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E8%A6%9Aコトバンクより2022年1月27日閲覧 
  2. ^ 河内祥輔「朝廷再建運動と朝廷・幕府体制の成立」所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年。 ISBN 978-4-642-02863-9
  3. ^ 曽我部愛「嘉禄~寛喜年間の神護寺復興事業と後高倉王家」『年報中世史研究』第四〇号、2015年。所収:『中世王家の政治と構造』同成社、2021年。 ISBN 978-4-88621-879-7 P99-135.
  4. ^ 文覚上人と神護寺 - 神護寺沿革”. 高雄山神護寺. 2009年12月3日閲覧。
  5. ^ 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』中公新書、2019年。
  6. ^ 藪本勝治『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』中公新書、2024年。
  7. ^ 知夫村誌編纂委員会 編『新修 知夫村誌』知夫村誌編纂委員会、1996年12月1日、967頁。 NCID BA37098855 
  8. ^ 知夫村小中学校教育会『郷土学習資料集 ちぶ』知夫村小中学校教育会、93頁。 
  9. ^ 芥川龍之介. “袈裟と盛遠”. 青空文庫. 2009年12月3日閲覧。

参考文献

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関連項目

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