木村清四郎
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木村 清四郎 きむら せいしろう | |
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生年月日 | 1861年7月12日(文久元年6月5日) |
出生地 | 備中国 |
没年月日 | 1934年9月24日(満74歳没) |
死没地 | 群馬県伊香保 |
出身校 |
慶應義塾 (現・慶應義塾大学) |
前職 | 日本銀行副総裁 |
所属政党 | 同和会 |
称号 |
正五位 勲二等旭日中綬章 |
内閣 | 第1次若槻内閣 |
在任期間 | 1927年4月18日 - 1934年9月24日 |
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。
経歴
[編集]大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。
時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。中国、欧米、インドを相次いで視察。加藤高明内閣(濱口雄幸蔵相)時代には、大蔵省出身で銀行の業務に暗い市来乙彦総裁に代わって、事実上の日銀総裁の権威をふるった。1927年(昭和2年)4月18日に貴族院議員に勅選された[1]。無所属系議員で構成される同和会に所属。次いで、前宮内大臣で当時は内大臣であった牧野伸顕の推薦により、木村は宮内大臣から帝室財務の相談に参与する嘱託を受ける。
日本銀行参与、千代田生命取締役を歴任また、中国銀行(本店・岡山市)新立に関して助言援助。群馬県伊香保にて死去。 墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、815-816頁 。(近代デジタルライブラリー)