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章陽の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
章陽の戦い

戦争第2次元越戦争
年月日至元22年/紹宝7年5月20日
1285年6月24日
場所:章陽(ハノイ東南)
結果陳朝軍の勝利
交戦勢力
陳朝軍 モンゴル軍
指導者・指揮官
陳日烜(陳聖宗)
陳日燇(陳仁宗)
ソゲドゥ
ウマル(烏馬児)
万戸劉圭
小李

章陽の戦い(しょうようのたたかい、ベトナム語: Trận Chương Dương độ)は、1285年ベトナムで行われた陳朝大越国軍とモンゴル帝国軍との戦いである。1284年末より大越国に侵攻した鎮南王トガン率いるモンゴル軍は一時国都の昇龍を占領するほど優勢であったが、1285年旧暦4月より大越国軍の逆襲を受けて撤退に追い込まれ、最期まで大越国内に残留していたソゲドゥ率いる軍団が「章陽の戦い」によって壊滅した。そのため、「章陽の戦い」は第二次モンゴルのヴェトナム侵攻における大越国軍の勝利を最終的に決定づけた戦闘と位置づけられている。

この戦闘が行われた場所は『大越史記全書』で「西結」とされているが、これは本来興安(Hưng Yên)省快州(Khoái Châu)県の東結(Đông Kết)社と対になる地名で、現在のハノイ市常信(Thường Tín)県彰陽(Chương Dương)社に相当する[1]。19世紀に編纂された『大南一統志』には「元帥ソゲドゥを破った所(破元帥唆都処)」の地名を「章陽古渡」としており、現在のベトナムでは「章陽の戦い(Trận Chương Dương độ/陣章陽渡)」と呼称している。

背景

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モンゴル帝国と大越国の関係の始まりは1250年代に遡り、当時大理国に駐屯していたウリヤンカダイモンケ・カアンの命を受けて1258年に大越国に侵攻し、平厲源の戦いに勝利して国都の昇龍を占領するに至った[2]。しかしこの時のモンゴル軍の主眼はあくまで南宋国を包囲攻撃する足掛かりを作ることにあり、ウリヤンカダイは早々に大越国から引き揚げて両国の間にはゆるやかな通貢関係が築かれた(第一次モンゴルのヴェトナム侵攻)[3]

その後、1270年代に南宋国が平定されるとモンゴルは本格的に東南アジア諸国への進出を開始するようになり、その足掛かりとして南海交易の要衝たるチャンパ王国に「占城行省」を設置しようとした[4][5]。しかしチャンパ側はモンゴル側の要求を拒否したため、至元19年(1282年)から至元20年(1283年)にかけて海路によるチャンパ侵攻が行われるに至った[6]。モンゴル軍は当初こそ国都ヴィジャヤを占領することに成功したものの次第に補給不足に悩み、遠征軍を指揮していたソゲドゥはヴィジャヤを放棄して大越国国境に近いウリク地方に移った(モンゴルのチャンパー侵攻)。このような情勢下で、ソゲドゥ軍を救い、改めて陸路から占城を攻めるために安南大越国にモンゴル軍を派遣することが計画された。

そもそも、チャンパ遠征も当初は陸海双方からの進軍が予定されていたが、安南側の協力拒否により海路からのみ遠征軍が派遣されたという経緯があった。そして今回もモンゴル側としてはあくまで安南は通過するのみで攻撃目標は占城としていたが、やはり安南が協力を拒んだために大越国領に対する軍事侵攻が行われるに至った。

戦闘

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至元21年(1284年)末より進軍を開始した鎮南王トガン率いる遠征軍はベトナム各地で連戦連勝し、至元22年(1285年)正月には大越国の首都の昇龍を占領するに至った[7]。しかしモンゴル軍は「安南国世子」の陳日烜(陳聖宗)。形式上息子の陳日燇に譲位し上皇の地位にあったが、事実上陳朝の君主として戦闘を指揮した)を取り逃がした上、大越国軍を指揮する興道王陳国峻は敗残兵を再編してモンゴル軍の補給路を絶とうと活動していた[8]。そこでモンゴル軍は陳日烜を捕らえるために南下し、各地で王族の投降を受けるとともに遂にソゲドゥ軍との合流も果たした。しかし、各地で連敗を喫しながらも軍団の再編を行っていた大越国軍は4月より遂に反転攻勢を始め、軍団を大きく2つに分けて一方は昭明王陳光啓・懐文侯陳国瓚・将軍の阮蒯らが率いて鎮南王トガン率いる本隊の拠るハノイ方面に進み、もう一方は「二帝(=陳聖宗・陳仁宗)」が自ら軍を率いてソゲドゥらが拠点とする長安方面に進んだ[9]

昭明王陳光啓・懐文侯陳国瓚らは西結歩頭・鹹子関でモンゴル軍に戦闘を挑み、ここで初めてモンゴル軍は大敗を喫した[10]。更に5月3日、陳聖宗・陳仁宗ら率いる軍団は長安府でモンゴル軍(清化方面に向かったソゲドゥが長安に残した駐留部隊とみられる[11])に勝利し、斬首されたモンゴル兵は数えきれないほどであったという[9]。こうして、各地で勝利を得た大越国軍は更に北上し、遂に昇龍に拠る鎮南王トガン率いる軍団を包囲するに至った。孤立したトガン軍は万劫江・瀘江・如月江での一連で連敗を喫し、遂に大越国からの撤退を余儀なくされた。なお、本国にトガン軍撤退の報告がなされると、朝廷はソゲドゥに大越国侵攻前に駐屯していたウリク地方に戻るよう命じていたが[12]、この命令が果たされることはなかった[13]

トガン率いる本隊が大敗し昇龍から撤退したことは、別行動を取っていたソゲドゥ軍を危機的な状況に追い込んだ。ソゲドゥは本隊が撤退したことを聞くと清化より軍を返し、北上して本隊と合流しようとしたが乾満江(如月江の別名か[14])で大越国軍に進路を遮られた[15][16]。5月17日、ソゲドゥとウマルは海路天幕江を攻撃し本隊と合流しようとしたが果たせず、また別働隊が扶寧県(富寿省所属の清江右岸[17])で敗退した。

5月20日、二帝(陳聖宗・陳仁宗)は大忙歩に至り、この時ソゲドゥ配下の総管の張顕が大越国に投降した[16]。そして同日、「西結」の地で大越国軍はソゲドゥ軍に攻撃を仕掛けたが、ソゲドゥは自らを裏切った張顕の攻撃に苦戦し、激戦の最中騎乗のまま落水し亡くなったと伝えられる[16]。ソゲドゥ配下の軍団はほぼ壊滅したが、ウマルと万戸の劉圭のみは逃れて夜半に清化江口を過ぎ、陳聖宗・陳仁宗はこれを追撃して5万あまりの捕虜を得た。しかし大越国軍は遂にウマルらを捕捉することができず、ウマルは軽舟を得てなんとか敵中を脱することができた。また、『安南志略』にはウマルらが逃れるに当たって小李なる将が一人残って奮戦し、追い詰められると自刎しようとしたが、陳聖宗は小李にあたる人物とみて救命させ、その後厚く遇したという逸話が記されている[18]

戦後、ソゲドゥの首級は陳聖宗の下に運ばれ、これを見た陳聖宗は惻然の情を抱いて「人臣たるはまさにかくの如くすべきなり(為人臣当如是也)」と述べ、自らの御衣をかけたという[16]。一方で、占城侵攻から足かけ3年に渡って大越国を苦しめたことを理由に、その首級は油に浸けられて戒めとして示されたと伝えられる[16]

脚注

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  1. ^ 山本1950.173-174頁
  2. ^ 山本1950,51頁
  3. ^ 山本1950,61頁
  4. ^ 向2013,73頁
  5. ^ 山本1950,99頁
  6. ^ 山本1950,114頁
  7. ^ 山本1950,167-169頁
  8. ^ 山本1950,169-170頁
  9. ^ a b 『大越史記全書』巻5陳紀仁宗皇帝,「[乙酉七年]夏四月、帝命昭明王・懐文侯国瓚・将軍阮蒯等領捷兵迎戦于西結歩頭。官軍与元人交戦于鹹子関、諸軍咸在。惟昭文王日燏軍有宋人、衣宋衣執弓矢以戦。上皇恐諸軍或不能辨、使人諭之曰『此昭文韃也、当審識之』。蓋宋与韃声音衣服相似、元人見之、皆驚曰『有宋人来助』。因此敗北。初、宋亡、其人帰我。日燏納之、有趙忠者為家将。故敗元之功、日燏居多。五月三日、二帝敗賊於長安府、斬馘無算。七日、諜報云唆都自清化来。十日、有自賊処逃赴御営、奏報云上相光啓・懐文侯国瓚及陳聡・阮可臘与弟阮伝率諸路民兵敗賊于京城・章陽等処。賊軍大潰。太子脱驩・平章阿剌等奔過瀘江。十五日、二帝拝謁龍興諸陵」
  10. ^ 山本1950,184-185頁
  11. ^ 山本1950,186頁
  12. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十二年五月]戊戌……陳日烜走海港、鎮南王命李恒追襲、敗之。適暑雨疫作、兵欲北還思明州、命唆都等還烏里。安南以兵追躡、唆都戦死。恒為後距、以衛鎮南王、薬矢中左膝、至思明、毒発而卒」
  13. ^ 山本1950,195頁
  14. ^ 山本1950,194頁
  15. ^ この時のソゲドゥの行動について、『元史』ソゲドゥ伝は「ソゲドゥは陳朝側からトガンが撤退したことを知らされたが信じず、トガンが駐屯していた大営まで赴いて始めて撤退が事実と知ったが、その後乾満江で戦死した(『元史』巻129列伝16唆都伝,「二十一年……俄有旨班師、脱歓引兵還、唆都不知也。交趾使人告之、弗信、及至大営、則空矣。交趾遮之於乾満江、唆都戦死。事聞、贈栄禄大夫、諡襄愍」)」とする一方、『安南志略』は「ソゲドゥは撤退の報を聞くと清化より軍を返し、安南軍と連戦し、一時は陳佗乏・阮盛らを捕虜とする勝利を得たが、配下の張顕が叛乱を起こし、その戦闘のさ中騎乗のまま落水し亡くなった(『安南志略』巻4征討運餉,「時唆都聞大兵既還、始自清化回軍、沿途日夜与彼戦、擒其将陳佗乏・阮盛等。至、拝卿。唆都部将礼脚張叛、率彼衆与我戦。唆都躍馬堕水死」)」としており、内容が食い違う。山本は状況から見て『安南志略』に記されるようにソゲドゥは本隊の撤退を知って行動を始めたとするのが正しいと述べ、またソゲドゥが戦死した地名が異なることについては「ソゲドゥは北上しようとして乾満江で進路を阻まれ、進路を変えた先の西結で戦死した」と解釈している(山1950,194頁)
  16. ^ a b c d e 『大越史記全書』巻5陳紀仁宗皇帝,「[乙酉七年五月]十七日、唆都与烏馬児自海再来犯天幕江、欲会兵京師相為援。游兵至扶寧県、本県輔導子何特上峙山固守。賊屯巨陀洞。特以竹編作大人形、衣以衣、暮夜引出入、又鑽大樹、取大箭挿入其中、使賊疑射力之貫。賊惧、不敢与戦。我軍遂奪撃破之。特追戦至阿臘、為浮橋渡江、酣戦死之。弟彰為賊所獲、盗得賊旗幟衣服逃回、以之上進、請用彼旗假為賊軍就賊営。賊不意我軍、遂大破之。二十日、二帝進次大忙歩、元総管張顕降。是日敗賊于西結、殺傷甚衆、斬元帥唆都首。夜半、烏馬児遁過清化江口。二帝追之不及、獲其餘党五万餘以帰。烏馬児僅以単舸駕海得脱。。…帝見唆都首級、惻然曰『為人臣当如是也』。解御衣、命有司斂葬之、潜以其首油浸、以示戒、以唆都三年仮道入我国故也」
  17. ^ 山本1950,193頁
  18. ^ 『安南志略』巻4征討運餉,「時唆都聞大兵既還、始自清化回軍、沿途日夜与彼戦、擒其将陳佗乏・阮盛等。至、拝卿。唆都部将礼脚張叛、率彼衆与我戦。唆都躍馬堕水死、軍遂陥。惟烏馬児・万戸劉圭、以軽舟脱。独小李戦、撫単舸於後。戦不勝、自刎。世子義、令人救活而厚遇之」

関連項目

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参考文献

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  • 向正樹「モンゴル・シーパワーの構造と変遷」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会、2013年
  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年