肥後国
遠国に属する令制国の一つ
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。
肥後国 | |
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■-肥後国 ■-西海道 | |
別称 | 肥州(ひしゅう)[注釈 1] |
所属 | 西海道 |
相当領域 | 熊本県 |
諸元 | |
国力 | 大国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 14郡99郷 |
国内主要施設 | |
肥後国府 |
1.(推定)熊本県熊本市南区 2.熊本県熊本市中央区 3.(推定)熊本県熊本市西区 |
肥後国分寺 | 熊本県熊本市 |
肥後国分尼寺 | 熊本県熊本市 |
一宮 | 阿蘇神社(熊本県阿蘇市) |
沿革
編集元来は肥前国と合わせて火国・肥国(ひのくに)であった。「肥後国」として初めて文献に現れるのは持統天皇10年(696年)頃であり、7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。
近世以降の沿革
編集- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,908村・851,099石7斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。幕府領は長崎奉行が管轄。下記のほか天草郡に寺社領が所在。
- 飽田郡(177村・72,420石余) - 熊本藩
- 託麻郡(59村・32,141石余) - 熊本藩
- 上益城郡(201村・98,284石余) - 熊本藩
- 下益城郡(191村・95,568石余) - 熊本藩
- 宇土郡(64村・35,794石余) - 熊本藩
- 八代郡(96村・62,985石余) - 幕府領、熊本藩
- 葦北郡(204村・21,023石余) - 熊本藩
- 玉名郡(257村・125,441石余) - 熊本藩
- 山本郡(62村・26,654石余) - 熊本藩
- 菊池郡(81村・29,572石余) - 熊本藩
- 合志郡(104村・51,839石余) - 熊本藩
- 山鹿郡(67村・36,150石余) - 熊本藩
- 阿蘇郡(214村・72,800石余) - 熊本藩
- 球磨郡(40村・64,760石余) - 人吉藩
- 天草郡(91村・25,661石余) - 幕府領
- 慶応4年
- 明治2年6月20日(1869年7月28日) - 長崎府の管轄区域が長崎県の管轄となる。
- 明治3年12月24日(1871年2月13日) - 長崎県の管轄区域のうち八代郡の一部(五家荘)が熊本藩領となる。
- 明治4年
- 明治6年(1873年)1月15日 - 全域が白川県の管轄となる。
- 明治8年(1875年)12月10日 - 熊本県(第2次)の管轄となる。
領域
編集明治維新直前の領域は、現在の熊本県全域に宮崎県の一部(下記)を加えた区域に相当する。ただし、宮崎県内の区域は1872年(明治5年)に日向国に移管されている。
肥後国から薩摩国へ移った地域
編集室町時代の後期まで長島・伊唐島・諸浦島・獅子島(現在の鹿児島県出水郡長島町)は、肥後国天草郡に属していたが、1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。
国内の施設
編集国府
編集国府所在地を記した文献は次の通り。
国府は託麻郡、益城郡、飽田郡と変遷したとされる[4]。それぞれ託麻国府は熊本市中央区国府(北緯32度47分14.25秒 東経130度43分22.66秒 / 北緯32.7872917度 東経130.7229611度)、益城国府は未詳(諸説)、熊本市西区二本木の二本木遺跡と推定されている[4]。
国分寺・国分尼寺
編集- 肥後国分寺跡 (熊本市中央区出水一丁目・神水本町、北緯32度47分19.32秒 東経130度43分55.30秒 / 北緯32.7887000度 東経130.7320278度)
- 肥後国分尼寺跡(熊本市中央区水前寺公園、北緯32度47分20.4秒 東経130度44分11.6秒 / 北緯32.789000度 東経130.736556度)
- 水前寺公園南東にある陣山廃寺が国分尼寺跡と推定されている。南北170m、東西115mの規模で、講堂・金堂・中門・回廊・南門などの遺構が確認されている。瓦は国分寺と同笵である。廃絶は国分寺より早く、10世紀頃に焼亡したらしい。
神社
編集- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく総社・一宮以下の一覧[5]。
- 総社:総社神社 (北緯32度47分35.33秒 東経130度41分31.02秒 / 北緯32.7931472度 東経130.6919500度) - 北岡神社(熊本市西区春日)境内社。
- 一宮:阿蘇神社 (阿蘇市一の宮町宮地、北緯32度56分52.75秒 東経131度6分57.18秒 / 北緯32.9479861度 東経131.1158833度)
- 二宮:甲佐神社 (上益城郡甲佐町上揚、北緯32度38分36.13秒 東経130度50分3.64秒 / 北緯32.6433694度 東経130.8343444度) - 保延3年(1137年)までには阿蘇神社の末社化[6]。
- 三宮:藤崎八旛宮 (熊本市中央区井川淵町、北緯32度48分31.27秒 東経130度43分5.20秒 / 北緯32.8086861度 東経130.7181111度) - 嘉禎4年(1238年)の文書に「当州第三之宗廟」[6]。
以上のほか、郡浦神社(宇城市三角町郡浦)が三宮を称する[7]。
安国寺利生塔
編集- 安国寺 - 熊本県熊本市西区横手。
- 安國寺 - 熊本県宇土市花園町佐野。
- 安国寺 - 熊本県菊池市豊水。
- 利生塔 - 如来寺(熊本県宇土市岩古曽町)内に設置。
地域
編集郡
編集江戸時代の藩
編集人物
編集国司
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※日付=旧暦
肥後守
編集- 道君首名(712年(和銅5年) - 718年(養老2年))
- 高倉殿継(806年(大同元年)1月28日 - )従五位上
- 大枝永山(812年(弘仁3年)1月12日 -9月27日 )従五位上
- 紀咋麻呂(812年(弘仁3年)9月27日 - 813年(弘仁4年)2月21日)従五位上
- 大枝永山(813年(弘仁4年)2月21日 - )従五位上
- 藤原村田(827年(天長4年)3月9日 - )従五位上
- 粟田飽田麻呂(834年(承和元年)頃)従五位下
- 藤原高総(836年(承和3年)以前)
- 大和吉直(846年(承和13年)1月13日 - 847年(承和14年)2月11日)従五位下
- 藤原正世(849年(嘉祥2年)1月13日 - 2月27日)従五位下
- 有雄王(849年(嘉祥2年)2月27日 - )従四位下
- 清原有雄(854年(斉衡元年)11月27日 - )従四位上 ※850年(嘉祥3年)に有雄王が清原真人姓を賜わり臣籍降下
- 高階峯緒(855年(斉衡2年)1月15日 - 855年(斉衡2年)8月23日)正五位下
- 藤原冬緒(855年(斉衡2年)8月23日 - 859年(貞観元年)12月21日)従五位上
- (権守)紀有常(858年(天安2年)2月5日 - )従五位上
- 小野貞樹(860年(貞観2年)1月16日 - )従五位上
- 藤原真数(860年(貞観2年)11月27日 - 864年(貞観6年))従五位上
- 紀夏井(865年(貞観7年)1月27日 - 866年(貞観8年)9月22日)従五位上
- 在原安貞(866年(貞観8年)11月29日 - )従五位上
- (権守)藤原山蔭(879年(元慶3年)8月17日 - 880年(元慶4年)1月)従四位上
- 藤原房雄(880年(元慶4年)5月13日 - )従五位上
- 源直(881年(元慶5年)2月15日 - 882年(元慶6年)2月15日)正四位下
- 藤原時長(885年(仁和元年)1月16日 - )従五位上
- (権守)藤原有実(885年(仁和元年)2月20日 - 886年(仁和2年)1月16日)正四位下
- (権守)藤原門宗(886年(仁和2年)1月16日 - )従四位上
- 藤原是行(886年(仁和2年)6月19日 - )従五位上
- (権守)平惟範(893年(寛平5年)3月15日 - )従四位下
- 多治是則(909年(延喜9年)1月 - )
- 藤原行直(926年(延長4年)頃)
- 藤原時佐(943年(天慶6年)3月7日 - )
- (権守)藤原佐忠(946年(天暦元年)頃)
- 清原元輔(986年(寛和2年) - 990年(正暦元年)6月)従五位上
- 源為親(990年(正暦元年)8月30日 - )
- 藤原保昌(1005年(寛弘2年))
- 大江忠孝(1010年(寛弘7年)頃)
- 藤原致光(1023年(治安3年) - 1027年(万寿4年)頃)正五位下
- 高階成章(1028年(長元元年) - )
- 藤原定任(長元・長暦頃?)
- 高階章行(1053年(永承3年)頃)
- 藤原義綱(延久頃)
- 源時綱(承暦頃)
- 中原師平(1091年(寛治5年))
- 藤原盛房(1092年(寛治6年) - )従五位下
- 高階基実(1097年(承徳元年) - )
- 藤原為宣(1102年(康和4年) - 1106年(嘉承元年))
- 藤原忠兼(永久頃)従五位下
- 高階清泰
- 藤原公章(1127年(大治2年))
- 高階泰重(1128年(大治3年))
- 平清盛(1137年(保延3年) - )従四位上
- 清原信俊(1142年(康治元年))正五位下
- 源国能(俊国)(1144年(天養元年) - 1154年(久寿元年))
- 平貞能
- 源頼成
- 源頼房
- 南朝国司(肥後守)
肥後介
編集- 豊宗広人(809年(大同4年)1月23日 - 812年(弘仁3年)4月19日)従五位下
- 菅原清人(812年(弘仁3年)4月19日 - )従五位下
- 橘真直(842年(承和9年)頃)従五位下
- 菅原梶吉(843年(承和9年)8月11日 - )外従五位下
- 山池作(848年(嘉祥2年)1月13日 - 2月27日)外従五位下
- 高丘貞雄(848年(嘉祥2年)2月27日 - )外従五位下
- (権介)県犬養氏河(853年(仁寿3年)8月8日 - )従五位下
- 橘仲宗(854年(斉衡元年)5月11日 - )従五位下
- 大原真室(855年(斉衡2年)1月15日 - )従五位下
- 藤原正峯(858年(天安元年)1月16日 - )従五位下
- (権介)大原真室(859年(貞観元年)1月13日 - )従五位下
- 橘朝雄(864年(貞観6年)1月16日 - )従五位下
- 平住世(866年(貞観8年)1月13日 - )従五位下
- 橘子善(869年(貞観11年)1月13日 - )従五位下
- 藤原智泉(877年(元慶元年)頃)従五位下
- 大神良臣(886年(仁和2年)1月16日 - 2月21日)外従五位下
- 三善清行(891年(寛平3年)1月30日 - 893年(寛平5年)1月11日)従五位下
- 藤原令門(925年(延長3年)頃)
- (権介)藤原遠美( - 978年(天元元年)秋)
- (権介)藤原頼兼(978年(天元元年)秋 - )正六位上
- 源家基
守護
編集鎌倉幕府
編集- 1253年(建長5年) - 1272年(文永9年) - 北条時章
- 1272年(文永9年) - 少弐資能
- 1276年(建治2年) - 1285年(弘安8年) - 安達泰盛
- 1285年(弘安8年) - 1292年(正応5年) - 北条氏
- 1310年(延慶3年) - ? - 北条政顕
- 1327年(嘉暦2年) - 1333年(元弘3年、正慶2年) - 北条高政
室町幕府
編集- 1335年(建武2年) - 大友氏泰
- 1335年(建武2年) - 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年) - 少弐頼尚
- 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年) - 1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年) - 一色直氏
- 1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年) - 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年) - 菊池武光
- 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年) - 1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年) - 大友氏時
- 1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年) - 阿蘇惟澄
- 1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年) - 阿蘇惟村
- 1373年(南朝:文中2年、北朝:応安6年) - 1379年(南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - 今川貞世
- 1379年(南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - 阿蘇惟村
- 1380年(南朝:天授6年、北朝:康暦2年) - 1395年(応永2年) - 今川貞世
- 1404年(応永11年) - 阿蘇惟村
- - ? - 1431年(永享3年) - 菊池兼朝
- 1431年(永享3年) - 1446年(文安3年) - 菊池持朝
- 1446年(文安3年) - 1466年(文正元年) - 菊池為邦
- 1466年(文正元年) - 1493年(明応2年) - 菊池重朝
- 1493年(明応2年) - 1504年(永正元年) - 菊池能運
- 1504年(永正元年) - 1505年(永正2年) - 菊池政隆
- 1505年(永正2年) - 1511年(永正7年) - 菊池武経
- 1511年(永正7年) - ? - 菊池武包
- ? - 1515年(永正11年) - 大友義長
- 1515年(永正11年) - 1550年(天文19年) - 大友義鑑
- 1550年(天文19年) - 1576年(天正4年)- 大友義鎮
戦国時代
編集戦国大名
編集- 菊池氏:肥後国守護。1504年、22代菊池能運が没すると、急速に没落
- 阿蘇氏:阿蘇神社大宮司家で鎌倉以来の名門だが、1585年島津氏に降伏
- 相良氏:最盛期には球磨・八代・葦北を領するが、1581年島津氏に降伏。後に豊臣政権の小大名として復活
豊臣政権の大名
編集- 佐々成政:肥後一国、1587年 - 1588年(肥後国人一揆の鎮圧に失敗し、改易・死罪)
- 加藤清正:肥後北半国19万5千石(熊本城)、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、肥後一国52万石の熊本藩に)
- 小西行長:肥後南半国20万石(宇土城)、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易・死罪)
- 相良頼房:人吉2万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、人吉藩に)
武家官位としての肥後守
編集江戸時代以前
編集江戸時代
編集肥後国の合戦
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)29コマ参照。
- ^ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)59コマ参照。
- ^ 『節用集 易林本』(国立国会図書館デジタルコレクション)144コマ。
- ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 621.
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 618-621。
- ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 620.
- ^ 三角町史編纂委員会編纂 『三角町史』 三角町役場、1987年。
参考文献
編集- 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708。
- 角川日本地名大辞典 43 熊本県
- 旧高旧領取調帳データベース