ループレヒト1世 (プファルツ選帝侯)
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ループレヒト1世 Ruprecht I. | |
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プファルツ選帝侯 | |
ループレヒト1世と妃たち | |
在位 | 1356年 - 1390年 |
別号 | ライン宮中伯 |
在位 | 1353年 - 1390年 |
出生 |
1309年6月9日 神聖ローマ帝国 バイエルン公領、ヴォルフラーツハウゼン |
死去 |
1390年2月16日(80歳没) 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ、聖堂参事会教会 |
配偶者 | エリザベート・ド・ナミュール |
ベアトリクス・フォン・ベルク | |
家名 | プファルツ家 |
父親 | 上バイエルン公兼ライン宮中伯ルドルフ1世 |
母親 | メヒティルト・フォン・ナッサウ |
ループレヒト1世(Ruprecht I., 1309年6月9日 - 1390年2月16日)は、ライン宮中伯(在位:1353年 - 1390年、プファルツ選帝侯としては1356年 - 1390年)。上バイエルン公兼ライン宮中伯ルドルフ1世とローマ王アドルフの娘メヒティルトの四男。アドルフ、ルドルフ2世の弟。
生涯
[編集]3番目の兄ルドルフ2世の死により1353年にライン宮中伯を継承した。ライン宮中伯はカール4世の金印勅書によって1356年に神聖ローマ帝国の7人の選帝侯の1人に定められたため、以後はプファルツ選帝侯と呼ばれる[1]。
1386年、ハイデルベルクに帝国で、プラハ大学、ウィーン大学に次ぐ3番目の大学であるハイデルベルク大学を創立した[2]。この大学は、ループレヒトの名を冠した「ループレヒト・カールス大学ハイデルベルク」(Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)が現在の正式な名称である。
1350年にナミュール侯ジャン1世の娘エリザベート(1330年 - 1382年)と結婚したが、1382年にエリザベートに先立たれ、1385年にベルク公ヴィルヘルム1世の娘ベアトリクス(1360年 - 1395年)と再婚した[2]。どちらの結婚でも子供は生まれず、1390年に80歳で死去した後、選帝侯位は甥で2番目の兄アドルフの子ループレヒト2世が継承した。
脚注
[編集]- ^ Volker Rödel: Ruprecht I., der Ältere. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 22, Duncker & Humblot, Berlin 2005, ISBN 3-428-11203-2, S. 288 f. (電子テキスト版).
- ^ a b Jakob Wille (1889). "Ruprecht I.". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 29. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 731–737.
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