ループレヒト2世 (プファルツ選帝侯)
表示
ループレヒト2世 Ruprecht II. | |
---|---|
プファルツ選帝侯 | |
ループレヒトと妻のベアトリクス | |
在位 | 1390年 - 1398年 |
出生 |
1325年5月12日 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、アンベルク |
死去 |
1398年1月6日(72歳没) 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、アンベルク |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ハイデルベルク、シェーナウ修道院 |
配偶者 | ベアトリーチェ・ダラゴーナ |
子女 |
アンナ フリードリヒ ヨハン マティルド エリーザベト ループレヒト3世 アドルフ |
家名 | プファルツ家 |
父親 | ライン宮中伯アドルフ |
母親 | イルメンガルト・フォン・エッティンゲン |
ループレヒト2世(Ruprecht II., 1325年5月12日 - 1398年1月6日)は、プファルツ選帝侯(在位:1390年 - 1398年)。
生涯
[編集]ライン宮中伯アドルフとイルメンガルト・フォン・エッティンゲンの長男として生まれた[1]。
父が1327年に死亡した時、まだ1歳と幼かったため、ライン宮中伯(後にプファルツ選帝侯)は2人の叔父ルドルフ2世、ループレヒト1世が相次いで継承した。1390年にローマ王ヴェンツェルの承認のもとに、ループレヒト1世亡き後の選帝侯位を継承した[2]。1391年、ユダヤ人を異端の罪で領内から追放し、没収した財産をハイデルベルク大学に寄贈した[2][3]。1395年、選帝侯領の統一を目的とした、いわゆる「Rupertinische Konstitution」を発布し[4]、帝国自由都市ネッカーゲミュントを併合した。
1398年死去、選帝侯位は3男ループレヒト3世が継承、後にローマ王ループレヒトとして即位した。
子女
[編集]1345年にシチリア王ピエトロ2世の娘ベアトリーチェ(ベアトリクス)と結婚し[1]、4男3女をもうけた。
- アンナ(1346年 - 1408年) - ベルク公ヴィルヘルム1世と結婚
- フリードリヒ(1347年 - 1395年)
- ヨハン(1349年 - 1395年)
- マティルド(1350年 - 1378年) - シゴスト・フォン・ロイヒテンベルクと結婚
- エリーザベト(1351年 - 1401年)
- ループレヒト(1352年 - 1410年) - プファルツ選帝侯、ローマ王
- アドルフ(1355年 - 1358年)
脚注
[編集]- ^ a b Thomas 2010, p. 387.
- ^ a b Volker Rödel: Ruprecht II.. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 22, Duncker & Humblot, Berlin 2005, ISBN 3-428-11203-2, S. 289 f. (電子テキスト版).
- ^ Jakob Wille (1889). "Ruprecht II.". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 29. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 737–740.
- ^ Junginger 2017, p. 43.
参考文献
[編集]- Junginger, Horst (2017). The Scientification of the "Jewish Question" in Nazi Germany. Brill
- Thomas, Andrew L. (2010). A House Divided: Wittelsbach Confessional Court Cultures in the Holy Roman Empire, c. 1550-1650. Brill
|
|