コンテンツにスキップ

終末論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

終末論(しゅうまつろん、英語: eschatology)とは、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。目的論という概念の下位概念。

社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教イスラム教ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方がある。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものである。

キリスト教

[編集]
キリスト教終末論
キリスト教終末論の相違点
意見
過去主義
象徴主義
歴史主義
未来主義
千年王国
無千年王国説
後千年王国説
前千年王国説
艱難前携挙説
艱難後携挙説
聖書の本文
オリーブ山の説教
羊と山羊
ヨハネの黙示録
ダニエル書
    Seventy Weeks
外典
エノク書
第2エスドラ書
重要用語
• Abomination of Desolation
ハルマゲドン
•四人の騎士
•新しいエルサレム
•携挙
•キリストの再臨
•2011年5月21日携挙予言
・七つのしるし
•大患難
• 二人の証人
• 反キリスト
• 歴史主義において
• 滅びの子
• 獣
• 過去主義において
イスラエルと教会 
•契約神学
•ディスペンセーション
•置換神学
• 新契約神学
• オリーブの木神学
• 双子の契約神学
Portal:キリスト教

キリスト教の終末論 (eschatology) という語は、ギリシア語τὰ ἔσχατα(ta eschata「最後のこと(中性複数形)」、キリスト教では具体的に四終(死・審判・天国・地獄)を指す)という言葉に由来し、イエス・キリストの復活と最後の審判への待望という事柄に関わる(千年王国を参照)。キリスト教では、その目的が世の救済であるため、教義学では終末を歴史の目的とするほか、キリスト教系新宗教の中には、「最後の審判」の時期を聖書から年代や終末期に起こる出来事(しるし)などから算定し、予言する教団もある。

20世紀スイス神学者カール・バルトも、主著『ロマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が『遅延する』ということについて……その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。……再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」といい、「終末はすでに神によってもたらされている」という認識である。

新約聖書にある終末信仰

[編集]
  • 50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した[注 1]。この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている[1]。テサロニケの信者は下記の予測についての終末信仰を始めた。
  • パウロが生きているうちに主の来臨がおきる。
  • パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。
  • パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。
  • パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。
  • パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる[2]
  • 54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した[3]。コリントの信者は再臨の時までパウロが生き残ることと、不死なる体に変化する世の終わりが近づいてきているという終末信仰を始めた[注 2]
  • 95年から96年ごろ著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される[4]。パウロの死んだ年は65年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された。小アジアの信者は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた[5]。キリスト教的な終末信仰が確立した。

キリスト教の終末観といった場合、ヨハネ黙示録を考証されることが多いが、新約聖書を歴史的な文書としてみる立場[6]からは、この黙示録は文学作品として扱われることがある。岩波書店の『新約聖書』(2004年)においては、新しい神支配の経綸を象徴的に解釈開示するキリスト教的黙示文学作品であるとされている。[7]

ナザレのイエスが語った終末観

[編集]

ナザレのイエスが直接に語った終末観とは、マルコ福音書13:32にある「かの日ないし〔かの〕時刻については、誰も知らない。天にいるみ使いたちも、子も知らない。父のみが知っている」、という記述であるとされている[8]。なお、マルコ福音書に出てくる終末については、エルサレム神殿崩壊を世の終わりの出来事と理解する筆者の見方や古い注によって編集されており[9]、 不明瞭な記述となっている。世の終わりについて、ナザレのイエスは天のみ使いさえも計り知ることのできないほどの深遠な事態であるとしているのに対して、パウロは、自分が生きているうちに主の来臨の時はやってくるとしていた。テサロニケ第一の手紙が書かれてから40年ほどしてからヨハネ福音書が書かれた[注 3]。ヨハネ福音書[注 4]はイエスの終末観と共通の部分があると思われ、世の終わり・裁きの時という概念は明瞭になっていない。人々がイエスの啓示に対して下す判断が、その人の運命を決定するとされ、悪人を裁いて滅ぼすためではなく、救うために布教していることが記されている[11]ヨハネ福音書では、裁きはもう来ているとされていて、この世の支配者はすでに裁かれたともされている。[11]

仏教

[編集]

仏教における末法思想は、「この世の終わり」を意味する終末的思想と同意義と見る向きも多い。

大乗仏教では、釈迦仏入滅年代(ただし諸説あり一致しない)より数えて、正・像・末と三時に分け、その最後の時を末法の世という。これは厳密にいえば、「正しい法が隠れ行われなくなること」である。したがって、世の中の政情不安や天変地異などを含めたものを末法というものではなかった。

しかし、日本においては、平安時代後期に末法に突入するという目測と、鎌倉時代へ移り変わっていく不安感も相まって、次第に、末法観念が終末論的に転化されていった。

そこで、末法においても有効な法があるという思想が広まった。浄土教では自力で悟ることが正法像法の時代よりも困難になる(一部では不可能とする)が、成仏するための阿弥陀仏(一部では末法の世にふさわしいものがあるとする)の力(一部では他力)を求め、念仏せよ」と説く。日蓮は、今が末法であるとして、他の教えを捨てて法華経に帰依するように説いた。一方、禅宗でも末法はあるが、曹洞宗の開祖・道元は『正法眼蔵随聞記』において末法思想を方便にすぎないとして否定している。

今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり。

—道元,『正法眼蔵随聞記』『道元禅師全集』下巻 四七五頁─四七六頁

弥勒信仰に見られる下生信仰も、末法思想の一種である。中国では、北魏大乗の乱が、この信仰によるものとされているし、代の白蓮教徒の乱に代表される、相次いで勃発した白蓮教信徒による反乱も、この信仰に基づいている。

この他、転輪王経のように終末戦争を描いた経典も存在する。

ただし、仏教では、原始仏教・初期大乗仏教を含めて、本来この世の始まりや終わりを説いていない(釈尊は時間に終わりがあるか、ないかという問いに対し、意味のない議論(戯論)であるとして「答えない」(無記)という態度をとっている)。さらに大乗経典の中でも、『涅槃経』などでは末法の世における救いを力説し、悲観的な見方を根本的に否定している。平安以降に広がった地蔵信仰では、地蔵菩薩が釈尊入滅から弥勒菩薩が現れる間(末法)六道全ての衆生を救う役割を担うとされる。したがって、これらから仏教における末法思想は、この世の終わりを意味するような終末的思想とは異なることが理解できる。

ヒンドゥー教

[編集]

インド亜大陸を中心に信仰されるヒンドゥー教は、固有の宗教観で知られる。ヒンドゥーの三大神の一柱であるシヴァ神は、破壊と再生の神とされ、徹底した破壊をその役どころとしている。破壊が激しいほど、その後にやってくる再生はより大きな可能性を秘めているとのヒンドゥー教独特の宇宙観がシヴァ神の役どころと言える。

また、シヴァと並ぶ三大神の一柱に位置づけられ、もっとも信仰を集めているヴィシュヌ神にも終末を担う役割がある。ヒンドゥーの教えではユガ(yuga)と呼ばれる思想がある。この世界は生成と終末を繰り返すとの思想である。各説あるが「マヌ法典」によれば、ユガは四期に分かれている。(第一期クリタユガ、第二期トレーターユガ、第三期ドヴァーユガ、第四期カリユガ)この教えによれば、現在こそ、もっとも教えが衰えるカリユガの末期であり。ヴェシュヌ神の化身カルキが白馬に乗る騎士の姿で現れ、この世界を破壊から再生させるとされる。

東アジア

[編集]

古代日本

[編集]

古代日本にも世の終わりを意識した考え方はあり、『万葉集』巻第二「天地と共に終えむと思いつつ仕え奉りし心違(たが)わぬ」がある(内容としては、天地が終わる時まで奉仕しようと思っていましたが、叶わないようです)。

百王説

[編集]

中国南北朝時代宝誌の手によるとされる「野馬台詩」が、日本では皇室未来を予言したものだという説が中世にかけて流布し、「百王説」が論じられた。これは『古事記』上巻序いかなる王朝も100代までで滅びるという解釈がされる記述があり、すでに鎌倉時代初期には『愚管抄』などでも取り上げられている。ただし、「百王」の意味は百代ではなく「数多き王」を意味するという解釈も存在した[12]

その後の南北朝時代皇統神武以来100代に達するという理解から、折からの政情不安と末法思想が相まって、北畠親房が言及するなど大いに論じられた。また、室町幕府将軍の足利義満も百王説に関心を示していたという。日蓮立正安国論にも登場する。

歴代天皇の数え方については諸説があるが、南朝を正統とする数え方では南北朝合一後の後小松天皇が百代となり、中世にはこれとは別に北朝後円融天皇を百代とする理解が存在した。いずれにしても、皇室はその後も100代を超えて存続したため、百王説は史実によって否定されることとなった。百王説が否定され、江戸時代に入ると、「野馬台詩」のパロディが作られるようになった。

元・会・運・世の説

[編集]

元・会・運・世は北宋易学者・邵雍によって提唱された世界(時間)のサイクルで、「1元(12万9600年)経つと天地の寿が終わり、再び1元が始まる」とするもの[13]。1元は12会で、1会は1万800年[14](30運)。1運は360年(12世)で、1世は30年。11会の時期に「万物(人)皆絶える(絶滅する)」とされる[15]。この説では万物=人が生まれたのは3会の時期(天が始まってから3万2400年の前後)である[16]11世紀で7会に当たり[17]、4会経ったら人が絶滅し、5会経つと天地が終わるということになる。この世界観では何度も終末を繰り返しているということになるが、同時に終わりでもない。

現代の論考

[編集]

政治学者フランシス・フクヤマは著作『歴史の終わり』で、ソビエト連邦の崩壊をもって「歴史は終わった」として、共産主義一党独裁体制に対して、民主主義自由経済が最終的に勝利したと論じた。

注釈

[編集]
  1. ^ 執筆の主な目的は、再臨の時まで生き残るパウロたちに比較して、再臨前に死亡した信徒たちは何らかの不利益を蒙るのではないかというテサロニケの信徒たちからの問いに答えるためであった。新約聖書翻訳委員会 2004, p. 920.(テサロニケ第一の手紙の解説、青野)
  2. ^ この手紙においてもテサロニケの手紙と同様に、再臨の時まで生き残るというパウロの確信が依然として表明されている。新約聖書翻訳委員会 2004, p546コリント人への第一の手紙第15:51における注6
  3. ^ 詳細については、キリスト教#福音書等の成立年代と著者を参照
  4. ^ 執筆年代は90年代、著者は無名の作者で、彼をよく理解した別の人物が今の形に成したとされる。[10]

出典

[編集]
  1. ^ 新約聖書翻訳委員会 2004, p. 494.(テサロニケ第一の手紙4:15における注12 保坂)
  2. ^ テサロニケ人への第一の手紙 4:15
  3. ^ 新約聖書翻訳委員会 2004, p. 921.(コリント第一の手紙の解説、青野)
  4. ^ 新約聖書翻訳委員会 2004, p. 939.
  5. ^ ヨハネ黙示録 12:10
  6. ^ 『新約聖書』岩波書店 はしがき 新約聖書翻訳委員会
  7. ^ 『新約聖書』岩波書店P939(ヨハネの黙示録解説 小河陽)
  8. ^ 『新約聖書』岩波書店P495(1テサ5:1の注19 青野)
  9. ^ 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P55、P57
  10. ^ 『新約聖書』岩波書店P918 ヨハネ福音書の解説 小林
  11. ^ a b 『新約聖書』岩波書店補注 用語解説P19 裁きの項目 新約聖書翻訳委員会
  12. ^ 今谷(1990)、p.144
  13. ^ 島田虔次 『朱子学と陽明学』 岩波新書 28刷1999年 p.72.
  14. ^ 同『朱子学と陽明学』 p.72.
  15. ^ 同『朱子学と陽明学』 p.73(図).
  16. ^ 同『朱子学と陽明学』 p.73.従って、人の歴史は3会から11会までと定まっている。
  17. ^ 同『朱子学と陽明学』 p.73.

参考文献

[編集]
  • 今谷明『室町の王権 - 足利義満の王権簒奪計画』中央公論社中公新書 978〉、1990年7月。ISBN 978-4-12-100978-4 

関連項目

[編集]