高橋寿太郎
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高橋寿太郎 たかはし じゅたろう | |
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生年月日 | 1879年1月15日 |
出生地 |
日本 岩手県上閉伊郡千徳村 (現・岩手県宮古市) |
没年月日 | 1945年4月8日(66歳没) |
出身校 | 海軍大学校卒業 |
前職 | 海軍軍人 |
所属政党 |
(立憲民政党→) (国民同盟→) 立憲民政党 |
称号 |
従四位 勲二等 |
選挙区 |
(岩手県第1区→) (岩手県第2区→) 岩手県第1区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1930年 - 1936年1月21日 1937年 - 1945年4月8日 |
田老村長 | |
在任期間 | 1938年1月31日 - 1942年4月15日 |
高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)1月15日[1] - 1945年(昭和20年)4月8日[2][3][4])は、日本の海軍軍人。階級は海軍少将。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。位階は従四位[3]。勲等は勲二等[3]。
経歴
[編集]岩手県上閉伊郡千徳村(現在の宮古市)生まれ[3]。東北学院を経て、1900年(明治33年)に海軍兵学校を卒業した[5]。日露戦争の際には戦艦「富士」の乗組員として旅順港閉塞作戦や日本海海戦などに参加した[5]。1912年(明治45年)、海軍大学校を卒業し、軍令部参謀、海軍大学校教授を歴任した[5]。第一次世界大戦では青島の戦いで第二艦隊参謀を務めた[5]。その後、海軍大学校教頭、海軍砲術学校校長、第一水雷戦隊司令官などを歴任した[5]。しかし海軍大演習で作戦をめぐって上層部と対立し、1927年(昭和2年)に予備役編入となった[6]。退官後は中央大学で法学を学んだ[5]。
1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、合計で4回当選を果たした[3][注釈 1]。また、1938年(昭和13年)1月31日から1942年(昭和17年)4月15日まで岩手県下閉伊郡田老村(現在の宮古市)の村長も務めた[7]。
1945年4月8日、議員在職中に死去した[4]。
栄典
[編集]- 1902年(明治35年)4月11日 - 正八位[8]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 従七位[9]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 正七位[10]
- 1910年(明治43年)3月22日 - 従六位[11]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 17、18、20,21の各回総選挙で当選
出典
[編集]- ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、21頁。
- ^ 『新訂政治家人名事典』
- ^ a b c d e 『国会大鑑 衆議院篇 133コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『官報 1945年04月27日 6コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f 『岩手県名士肖像録』p.21
- ^ 『国民同盟陣営展望』pp.153-154
- ^ 『田老生誕100周年記念誌 63コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
参考文献
[編集]- 『御大典記念 岩手県名士肖像録』岩手県名士肖像録刊行会、1930年。
- 森岩吉『国民同盟陣営展望』政界評論社、1934年。
- 『衆議院要覧(乙) 昭和17年11月』衆議院事務局、1942年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。