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アレクセイ・ネモフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクセイ・ネモフ
2009年10月撮影
選手情報
フルネーム ロシア語: Алексей Юрьевич Немов
国籍 ロシアの旗 ロシア
生年月日 (1976-05-28) 1976年5月28日(48歳)
故郷 トリヤッチ
身長 173cm(シドニー五輪当時)[1]
体重 71kg(シドニー五輪当時)[1]
獲得メダル
オリンピックの体操競技
2000 個人総合
2000 鉄棒
1996 団体総合
1996 跳馬
2000 ゆか
1996 個人総合
2000 団体総合
2000 あん馬
2000 平行棒
1996 あん馬
1996 鉄棒
1996 ゆか
世界体操競技選手権
1999 天津 ゆか
1999 天津 あん馬
1997 ローザンヌ ゆか
1996 サンフアン 跳馬
1995 鯖江 跳馬
2003 アナハイム 平行棒
1999 天津 団体
1996 サンフアン 平行棒
1994 ドルトムント 団体
2003 アナハイム 鉄棒
1997 ローザンヌ 団体
1996 サンフアン あん馬
1994 ブリスベン 平行棒
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アレクセイ・ユリエビッチ・ネモフロシア語: Алексей Юрьевич Немов[2]1976年5月28日 - )は、ロシアの元体操競技選手

略歴

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乳児期に両親が離別し母子家庭で育った。5歳で体操を始め、1993年世界体操競技選手権バーミンガム)にて16歳で国際大会デビューした。

元来自由演技には絶対の自信があり[要出典]1995年世界体操競技選手権(福井県鯖江市)では団体後半:自由演技のみの得点は出場全選手中第1位であったが団体前半:規定演技の得点が伸びず、合計得点がロシアチーム4番目であったため個人総合には出場することができなかった。

翌年のアトランタ五輪までには、規定課題を十分にマスターしてロシアを団体総合金メダルに導いた。また個人総合では中国の李小双と壮絶な接戦となり、最終種目の鉄棒で逆転され銀メダルに終わった。

2000年のシドニー五輪で、ネモフは抜群の安定感で第一種目の鉄棒から首位を守り抜き見事アトランタ五輪の雪辱を果たした。直前に長男が誕生しており、「息子がよいモチベーションになったんだ」とネモフは語った。

3度目の出場になったアテネ五輪の種目別鉄棒において、ネモフは豪快かつ華麗な連続離れ技を披露したが着地を大失敗したため得点が伸びなかった。採点ルールを知らない素人観客による場内のブーイングから、採点がやり直され得点が僅かに上昇した[要出典][3] が、それでもなおブーイングは止まず競技が中断してしまった。そこでネモフは自ら感謝と静かにするようジェスチャーをし、観客を鎮めた。ネモフは最終的に5位だったが、次の演技者だったポール・ハムは銀メダルを獲得できた。

特徴

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1990年代中盤から2000年代前半にかけて活躍した。ネモフはこの時期に活躍した体操選手にはめずらしく6種目すべてにおいて不得意種目がなく、アトランタオリンピックおよびシドニーオリンピックでは2大会連続の個人総合のメダルはもとより、種目別においてもつり輪以外はすべてメダルを獲得経験があるほどネモフは李小双と並びこの時期を代表する男子体操選手であった。

ネモフは姿勢が美しく、華麗な演技を持ち味としていた。ただし観客の反応と採点は別の問題であり[4]アテネ五輪ではそのことが表面化してしまった[独自研究?]

また、同年代のイワン・イワンコフベラルーシ)らとともに旧ソ連邦の体操選手育成システム終盤の育成選手であった。

脚注

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  1. ^ a b 2000年9月21日 朝日新聞「塚原落ちた、18位 体操・男子個人総合」
  2. ^ ロシア語ラテン翻字: Alexei Yurievich Nemov
  3. ^ 観客のブーイングで採点が覆ったのは、前代未聞の珍事である[要出典]
  4. ^ 2003年8月25日 読売新聞「世界選手権24日 男子鉄棒 鹿島2個目の金、一夜で驚く進化」

外部リンク

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