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遠藤幸雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遠藤えんどう 幸雄ゆきお
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1937-01-18) 1937年1月18日
生誕地 秋田県秋田市広面
没年月日 (2009-03-25) 2009年3月25日(72歳没)
死没地 東京都千代田区駿河台日本大学病院
種目 男子体操競技
得意種目 鉄棒
学歴 秋田市立広面小学校
秋田市立久保田中学校
秋田県立秋田工業高等学校
東京教育大学
獲得メダル
日本の旗 日本
体操競技
オリンピック
1960 ローマ 男子団体総合
1964 東京 男子平行棒
1964 東京 男子個人総合
1964 東京 男子団体総合
1968 メキシコシティー 男子団体総合
1964 東京 男子ゆか
1968 メキシコシティー 男子跳馬
世界選手権
1962 プラハ 男子団体総合
1962 プラハ 男子徒手
1966 ドルトムント 男子団体総合
1962 プラハ 男子個人総合
1962 プラハ 男子つり輪
1962 プラハ 男子鉄棒
1966 ドルトムント 男子ゆか
1966 ドルトムント 男子鉄棒
1962 プラハ 男子跳馬
1962 プラハ 男子平行棒
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遠藤 幸雄(えんどう ゆきお、1937年(昭和12年)1月18日 - 2009年(平成21年)3月25日)は、日本の元体操競技選手。日本大学名誉教授

経歴・人物

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秋田県秋田市広面字谷内佐渡出身。秋田工業高校から東京教育大学(現筑波大学)卒業。

広面小3年生の時に母親を亡くし、久保田中1年[1] の冬から養護施設感恩講で育つ。中学2年の時、先生の勧めで体操部に入部し、市内大会では数々の表彰台に上がる。

同じ秋田県出身の小野喬を目標に競技を続け、東京教育大学在学時代から体操競技日本代表選手に選ばれてオリンピック世界選手権など数々の国際大会に出場した。1964年東京オリンピックでは日本選手としては初めてとなる個人総合優勝を果たした。過去2回のオリンピックに僅差で個人総合優勝を逃していた小野は遠藤の快挙を喜び、個人的に遠藤にトロフィーを贈った。遠藤はこのトロフィーを「永遠の記念品」と述べている(下記外部リンクを参照)。

東京オリンピック個人総合の最終種目となった鞍馬を前に、遠藤は9.00を出せば2位のボリス・シャハリンソビエト連邦、ローマ五輪個人総合金メダリスト)が最終種目でたとえ10.00を出しても追いつかない絶対的優位を築いていたが、日本悲願の個人総合優勝のかかる重圧の中、会場が凍りつく落下寸前の演技の止まるミスを連発、長い協議の末9.10をマーク。ソ連の執拗な採点に対する抗議も覆らず、遂に日本に個人総合の金メダルをもたらした。この功績を基にドイツから託された「最も高い成績を残した選手に」と第1回アテネオリンピックの優勝メダルが与えられたが、後にそれは秩父宮スポーツ博物館に寄贈された。以後、このメダルは盗難に遭い、現在も取り戻されてはいない[2]

東京教育大学卒業後、日本大学に就職し、助手になる。

引退後、1972年ミュンヘンオリンピックチームリーダーを務めるなど、指導者としても活躍の場を広げた。また日本体操協会では専務理事、副会長を経て協会顧問を務めていた。1999年国際体操殿堂入り。

長男の遠藤幸一も父と同じ体操選手となり、日本体操協会常務理事を務めている。

日本オリンピック委員会理事も歴任。元日本大学文理学部教授。

1996年紫綬褒章2008年には旭日中綬章[3]をそれぞれ受章した。

2009年3月25日食道がんのため逝去[4][5]。72歳没。養護施設への寄付を最期まで続けていた。

成績

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関連項目

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セントラルスポーツ広面

脚注

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  1. ^ エンドー/遠藤幸雄(体操選手)/72歳 - サーカスな日々”. 2022年3月2日閲覧。
  2. ^ 3・14時効迫る!121年前、第1回アテネ五輪の優勝メダル返して”. スポニチ (2017年2月3日). 2017年4月10日閲覧。
  3. ^ 秋の叙勲・褒章 栄誉に浴した私学関係者”. 日本私立大学協会 (2008年11月5日). 2023年6月13日閲覧。
  4. ^ 遠藤幸雄さん死去、体操ニッポンをけん引”. 日刊スポーツ (2009年3月26日). 2022年4月23日閲覧。
  5. ^ 訃報、遠藤幸雄顧問”. 公益財団法人日本体操協会| (2009年3月26日). 2022年4月23日閲覧。
  6. ^ 体操競技、日本男子の5つの名場面とは”. 【SPAIA】スパイア (2016年10月11日). 2020年11月14日閲覧。

外部リンク

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